第一次世界大戦時の飛行機(覚書)『アメリカを変えた夏 1927年』 ビル・ブライソン
ライト兄弟の友人初飛行が1一九〇三年か。第一次世界大戦がはじまる一九一四年まで一一年。そして第一次世界大戦。飛行機は一気に、それまでとはまったく違うものになる。 |
その時点で先頭を走っていたのはフランスだったそうだ。フランス空軍は三十数機を擁し、他の全世界を合わせた空軍力をも上回っていた。独・英・伊・露・日・墺はいずれも四機以下、米に至っては二機だけだったそうだ。
ところが、いざ戦端が開かれると、飛行機は使える、軍司令官たちはすぐに気づいたようだ。空から敵の部隊の動きを監視。砲撃の距離や方向を上空から支持するのも飛行機の仕事だったそうだ。もちろん殺傷兵器としての価値も認められた。爆弾の投下といっても、ワインのボトルにガソリンか灯油を詰め、それに起爆装置をつけたものから始まった。 |
すぐに技術は進んだ。一九一八年には最大一〇〇〇キロの爆弾が登場した。大戦中、ドイツ軍だけでも爆薬二万七〇〇〇トン、一〇〇万発の爆弾を投下した。搭載する爆弾の重量と数が増えるにつれ、大型で強力な飛行機が登場した。そうした爆撃機を迎撃するために戦闘機の開発に拍車がかかり、それが空中戦を生み、少年たちの想像力をかきたて、それから数十年間の航空界のイメージを決定づけた。 |
フランスは四年間で二十万人近くを雇用し、約七万機の飛行機を生産する航空産業を築き上げた。イギリスは五万五〇〇〇機、ドイツは四万八〇〇〇機、イタリアは二万機を生産した。一九一四年まで飛行中に死亡した人は世界中合わせても一〇〇人ほどだった。それがいまや何千人単位で死んでいた。一九一七年になると、イギリス人パイロットの平均余命は八日間と言われた。
『アメリカを変えた夏 1927年』 ビル・ブライソン 白水社 ¥ 3,456 リンドバーグが飛び、アル・カポネが暗躍し、ベーブ・ルースが打つ❢ |
第一次世界大戦の時の、新兵器としての“飛行機”。窓を開けてピストルで撃ちあう空中戦なんて話をなんかで読んだようなきがするんだけど、いまいちイメージが掴めなかったんで、プロローグの内容を“覚え”で保存させてもらった。
でもさ。つくづく思うんだけど、ライト兄弟以前に日本人が飛行機を飛ばす可能性もあったんだよね。模型のプロペラ機なら、一九〇一年に、日本人の二宮忠八が飛ばしてるんだからね。前に書いた記事なんだけど、こういうことです。
さてその二宮忠八だけど、彼は一八八七(明治二〇)年に徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。彼のつくった模型のブロペラきというのは全長三五cm、幅四五cmの機体で「カラス型飛行器」と名付けられていた。一八九一年四月二九日、カラス型飛行器は三mほど滑走すると一mほどの高さまで機体を浮かせ、三〇mほど先の草むらに落ちた。のちに、玉虫型飛行器も考案した二宮は、一八九三(明治二六)年と一八九六(明治二九)年の二回、飛行器の研究と実用化を上部に具申したがかなえられなかった。 二宮は軍を除隊して研究を続けるが、ライト兄弟の成功の知らせに接し、開発への執念を失ってしまう。二宮自身が後に創建した《飛行神社》の記録によれば、「忠八はこぶしを握りしめ無念の涙を流し、今飛行機を作ったとしても〈欧米追従の飛行機〉、ライト真似の真似をしたという評価しか受けないだろうと、製作を断念した」という。 のちに、二宮の研究が極めて高いレベルのものであったことが軍にも知られ、二宮の研究は社会的にも評価されるようになった。かつて、二宮の直接の上司で、二宮から飛行機研究の具申を受けながら却下した長岡外史元大佐は、直接に飲み屋を手伝ねて謝罪したという。 彼の創建した飛行神社は今も続いており、航空受難者などを祀り、航空安全と航空事業の発展を祈願しているという。 |
(覚書)に残させてもらった内容を読めば、すべてではないけど、やっぱり戦争は技術開発のおそらく最大の要因だよね。第一次世界大戦がおそらく人類史の中でも特別な意味を持つ戦争であるというのは、それを恥ずかしげもなく、バカでもわかるほど明確に証明しているからなんじゃないかなって思う。
戦争を糧としない、しかもそれ以上の技術開発の動機があるなら、それこそ今度は日本人が見つけましょうか。


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