モンゴル略史(覚書)『墓標なき草原』 楊海英
Searchina 2015/12/21 政府「出先機関」襲撃事件、内モンゴル当局と甘粛省警察などが現場で「対決」 http://news.searchina.net/id/1597705?page=1 (抜粋) 中国メディアの新浪網によると、6日未明に内モンゴル自治区西部のアラシャン盟エジナ旗(漢字表記は「阿拉善盟額済納旗」)の総合執法検査站(総合公務執行検査ステーション)が襲撃された事件で、甘粛省側の警察関係者とみられる37人が13日、現場に入ろうとして内モンゴル側の警備員と「対決状態」になったことが分かった。 |
チベットやウイグルがひどい目に合わされてきたことは聞いてたけど、モンゴルがこんなにも悲惨だったなんてね。内モンゴルって呼ばれる地域ね。しかも、ヤルタ協定に基づいて内モンゴルが支那に属することになったとすれば、日本も強く関わっていることになる。
岩波書店 ¥ 3,348 内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録 |
はじめにー内モンゴルの文化大革命に至る道 序章 「社会主義中国は、貧しい人々の味方」ー中国共産党を信じた牧畜民バイワル 第Ⅰ部 日本刀をぶら下げた連中 第1章 日本から学んだモンゴル人の共産主義思想ー一高生トブシン、毛沢東の百花斉放に散る 第2章 「亡国の輩になりたくなかった」ー満洲建国大学のトグスの夢 第3章 「モンゴル族は中国の奴隷に過ぎない」ー「内モンゴルのシンドラー」、ジュテークチ 第Ⅱ部 ジュニアたちの造反 第4章 「動物園」の烽火ー師範学園のモンゴル人造反派ハラフー 第5章 陰謀の集大成としての文化大革命ー師範大学名誉教授リンセの経験 第6章 漢人農民が完成させた「光栄な殺戮」ー草原の造反派フレルバートル |
一三六八年、大都北京にいた元朝皇帝は、万里の長城の北側の草原に撤退し、漢人の故郷には明朝が成立した。朱元璋が皇帝となり、都は南京に置かれた。
モンゴル高原に戻った遊牧民たちは万里の長城の北側に立っていした後も、引き続き、元という国号を用い続けた。一七世紀になると、今度は別の遊牧狩猟民が大興安嶺の東の森の中から姿を現した。満州人である。モンゴル人が新興勢力である満州人を草原の大ハーンとして認めたのは一六三五年のことであった。翌年、満州人が奉天を都に大清という王朝を建てた時、ゴビ砂漠の南に分布するモンゴル人たちも、その建国の儀式に参列した。
清王朝の臣民となったモンゴル人たちは、その後、大清の戦死として闘い、漢土だけでなく、チベットや東トルキスタンまでをすべて清朝の領土に変えていった。
一九世紀となり、モンゴル人は西洋の軍隊とも戦ったが、重火器の時代の前に騎馬の戦士たちは退潮を余儀なくされた。清朝時代、満州人の強い軍事同盟者だったモンゴル人たちは、清朝の準支配層の地位を与えられ、彼らの故郷である草原も手厚く保護され、漢人の流入は厳しく禁じられていた。しかし、西欧列強に敗れて莫大な賠償金を課された清朝は、ついに長城の関所を開いて草原を漢人農民たちに開放した。この時から、遊牧を続けながら草原を守ろうとするモンゴル人と、畑を開拓したい漢人との衝突が避けられない事態となる。
その最初の典型例が、一八九一年の金丹道の乱である。無数の漢人農民が内モンゴルの南東部で反乱を起こした。金丹道の乱はモンゴル人社会に大きな恐怖と深刻な影響を残した。暴力に訴えれば、モンゴル人たちは簡単に屈服し、土地も手に入る。そう漢人たちは信じるようになる。しかも漢人たちは、自分たちのその行為を、自分たちの貧困と没落の原因をモンゴル人の存在と結びつけることで正当化した。金丹道の乱で土地を獲得した彼らの社会には、いつしか虐殺は裕福になるための手段だと考える精神的土壌ができあがっていた。
清朝は満州人の帝国だったが、満州人の皇帝をいただく漢人たちはその支配のもとで「中国人意識」とでも呼べそうな一体感を強めた。そして清朝末期、西欧列強に有効な政策を打ち出せない満州人に“無能な支配層”と見るようになっていった。漢人は濃厚を嗜まない満州人を、モンゴル人同様、「野蛮な異族」と認識しつつも、それまでの支那のどの王朝よりも拡張した清朝の領土だけは、「中国人の領土」と認識するようになった。清朝打倒に執念を燃やした孫文は、「韃虜の駆除」をスローガンの一つとして掲げた。漢人の民族主義を鼓舞した彼と中華民国には、そもそも“韃虜”たるモンゴル人、満州人、チベット人らに合法的地位を与えるつもりはさらさらなかった。
駆逐される対象となったモンゴル人は自決の道を選んだ。一九一一年に清朝が崩壊すると、モンゴル高原の住民たちは独立を宣言した。ゴビ砂漠の南の位置する内モンゴルのモンゴル人たちも、それに呼応しようとした。しかし、金丹道の後継者である漢人軍閥は、すでに内モンゴルの草原に確固たる地位を築き、モンゴル人の独立機運を力で抑えこんだ。内モンゴルのモンゴル人に残された道は、歓迎せぬ漢人入植者との共生しかなかった。
金丹道の乱から五十数年後の一九四〇年代後半、中国共産党員たちが解放者と称して内モンゴルの草原に入ってくる。漢人共産主義者たちは広い放牧地を持つ遊牧民を「搾取階級」と認定して、その草原を奪い貧しい漢人農民に分け与えた。漢人農民たちは共産党を熱烈に擁護して、モンゴル人を殺害するという「平和的な土地改革」に積極的に呼応した。


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