執権時宗・魔王義教(覚書)『日本史の英雄』 倉山満✕おかべたかし
歴史を自分に引き寄せてみる。あるいは、自分を歴史の舞台に立たせてみる。その双方を繰り返すことで、歴史を生身でとらえるって、とても大事ですよね。なかなかできることじゃありません。どうしても教科書はじめ、書物の字面で追っちゃうんですよね。
日本史の英雄20人が紹介されているこの本の、第2章「中世~近世 日本らしさの創出」代表、北条時宗の項目では、またまたそれを思い知らされてしまいました。なにしろ18歳で執権の地位につき、日本国の舵取り、それも最大の危機に見舞われた日本の舵取りを双肩に担うわけですからね。
そして、歴史を字面だけで考えれば、「1274年の文永の役と1281年の弘安の役」ってことになっちゃうけど、ユーラシアを席巻していったモンゴルの脅威と、そのモンゴルが日本に食指を伸ばしていることはずっと前から伝えられているし、両役間もずっと緊張状態にあったはずだ。二月騒動も、下手をすれば権力闘争の激しい北条家内の内ゲバ事件と捕らえられて終わってしまう場合もあるけど、兄の時輔を殺すのも、国難にあたって徹底抗戦の挙国一致体制を固める鉄の意志表示と見れば、時宗の凄みが分かる。
最後に執権だ。朝廷から政治の実権を奪い取り、さらに幕府において征夷大将軍から政治の実権を奪い取り・・・。北条家はそうして“執権”という幕府の実力者の地位を世襲していった。だけど、それは天皇と違うし、さらには征夷大将軍とも違う。天皇は権威そのものだし、征夷大将軍もその権威に支えられている。だけど執権は、天皇の権威とは別のところに成立した実力だから、それを維持するためには、能力を示さなければならなかったわけだ。有能じゃなければダメなのね。
そういう時代に訪れた危機。その時代で良かったかもね。
信長を切って、足利義教を入れたっていうのもずいぶん頑張りましたよね。《信長というのは、この足利義教のやったことをなぞっているに過ぎないーそういってもいいほどの人物》とは言うものの、あまりにも知名度が低すぎる。
*綱紀を粛正し、政治のあり方やそれに携わるものの倫理を確立する
*鎌倉公方はじめ、南朝末裔、九州勢力、守護大名でも、室町将軍の意に背く地方勢力は潰す
*延暦寺に立ち向かい、根本中堂を焼き討ちにする
業績を見ても、まるで信長のことを言っているようにしか見えない。信長の場合、自身が死んでも、秀吉、家康と異才が続いたのに対して、義教にはそれがなかった。結果として、時代を変えられなかったことが、その印象を薄くしているんだろう。それでも、義教の死後、室町幕府が混乱期を迎えながらも100年以上持ったのは、義教が整えた強固な官僚制と奉公衆と呼ばれる親衛隊があったからという。やはり魔王と呼ばれるにふさわしい存在ではあったようだ。
著者は義教を、日本における絶対主義体制導入の先駆けと位置づける。「王権神授」「官僚制」「常備軍」「重商主義」「諸侯・宗教勢力の鎮圧」を重商主義の要件として、義教はそれを満たしたという。「王権神授」?・・・実は、義教の将軍職就任には対抗馬があり、くじ引きで将軍になった。くじに神が宿ったのね。
「信長はなぞっただけ」っていうのは、あんまり知られてない義教を持ち上げるために使った言葉で、信長は信長ですごい。義教は、そのスキルの始まりが、すでに将軍だったんだからね。尾張の中堅勢力から始めた信長とは比べ物にならないくらいの好条件だ。まあ、単純な比較はできないってことね。ただひとつ、同じなぞるにしても、手下に裏切られて殺されることまでなぞることはないじゃないか。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
日本史の英雄20人が紹介されているこの本の、第2章「中世~近世 日本らしさの創出」代表、北条時宗の項目では、またまたそれを思い知らされてしまいました。なにしろ18歳で執権の地位につき、日本国の舵取り、それも最大の危機に見舞われた日本の舵取りを双肩に担うわけですからね。
そして、歴史を字面だけで考えれば、「1274年の文永の役と1281年の弘安の役」ってことになっちゃうけど、ユーラシアを席巻していったモンゴルの脅威と、そのモンゴルが日本に食指を伸ばしていることはずっと前から伝えられているし、両役間もずっと緊張状態にあったはずだ。二月騒動も、下手をすれば権力闘争の激しい北条家内の内ゲバ事件と捕らえられて終わってしまう場合もあるけど、兄の時輔を殺すのも、国難にあたって徹底抗戦の挙国一致体制を固める鉄の意志表示と見れば、時宗の凄みが分かる。
最後に執権だ。朝廷から政治の実権を奪い取り、さらに幕府において征夷大将軍から政治の実権を奪い取り・・・。北条家はそうして“執権”という幕府の実力者の地位を世襲していった。だけど、それは天皇と違うし、さらには征夷大将軍とも違う。天皇は権威そのものだし、征夷大将軍もその権威に支えられている。だけど執権は、天皇の権威とは別のところに成立した実力だから、それを維持するためには、能力を示さなければならなかったわけだ。有能じゃなければダメなのね。
そういう時代に訪れた危機。その時代で良かったかもね。
『日本史の英雄』 倉山満✕おかべたかし 扶桑社 ¥ 1,620日本史なんてよく知らない。そもそも歴史が好きじゃない。そんな人に・・・ |
信長を切って、足利義教を入れたっていうのもずいぶん頑張りましたよね。《信長というのは、この足利義教のやったことをなぞっているに過ぎないーそういってもいいほどの人物》とは言うものの、あまりにも知名度が低すぎる。
*綱紀を粛正し、政治のあり方やそれに携わるものの倫理を確立する
*鎌倉公方はじめ、南朝末裔、九州勢力、守護大名でも、室町将軍の意に背く地方勢力は潰す
*延暦寺に立ち向かい、根本中堂を焼き討ちにする
業績を見ても、まるで信長のことを言っているようにしか見えない。信長の場合、自身が死んでも、秀吉、家康と異才が続いたのに対して、義教にはそれがなかった。結果として、時代を変えられなかったことが、その印象を薄くしているんだろう。それでも、義教の死後、室町幕府が混乱期を迎えながらも100年以上持ったのは、義教が整えた強固な官僚制と奉公衆と呼ばれる親衛隊があったからという。やはり魔王と呼ばれるにふさわしい存在ではあったようだ。
著者は義教を、日本における絶対主義体制導入の先駆けと位置づける。「王権神授」「官僚制」「常備軍」「重商主義」「諸侯・宗教勢力の鎮圧」を重商主義の要件として、義教はそれを満たしたという。「王権神授」?・・・実は、義教の将軍職就任には対抗馬があり、くじ引きで将軍になった。くじに神が宿ったのね。
「信長はなぞっただけ」っていうのは、あんまり知られてない義教を持ち上げるために使った言葉で、信長は信長ですごい。義教は、そのスキルの始まりが、すでに将軍だったんだからね。尾張の中堅勢力から始めた信長とは比べ物にならないくらいの好条件だ。まあ、単純な比較はできないってことね。ただひとつ、同じなぞるにしても、手下に裏切られて殺されることまでなぞることはないじゃないか。


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