ムハンマドの系譜(覚書)『逆説の世界史 2』 井沢元彦
9世紀の人、イブン・ヒシャームが、ムハンマドの死の70年後に生まれたイブン・イスハークが書いた『マガーズィーの書』を再構成したのが『預言者ムハンマド伝』。神でないムハンマドの伝記はコーランにはなく、『預言者ムハンマド伝』に頼る。それによれば、ムハンマドはアダムの直径であるという。ムハンマドから遡ること31番目がアブラハム。40番目がアジア人の祖とされるセム。41番目がノア。50番目がアダムだという。
血統主義への思い入れが強いんだな。これは宗教というよりも、それ以前の地域性かな。部族性っていうのかな。もう一つ重要なのは、該当地域の発展段階か。今でも、部族主義、氏族主義が徹底してるもんね。そういう意味ではムハンマドの頃も今も、あんまり変わっていないんだな。
主役はムハンマド。ムハンマドを、私たちのムハンマドたらしめる最大のものは、教えの何たるかではない。第一に、軍事的指揮官として極めて優秀であったということだ。迫害から逃れるためにメッカからメディナに本拠を移して反対勢力と戦い続け、624年のバドルの戦い、625年のウフドの戦い、627年のハンダクの戦いなど、常に勝ち続けた。これらの戦いに一度でも負けて入れば、その後のイスラム教の発展はなかった。勝ち続けたことによって、信徒たちはムハンマドが「最後の預言者」であることを確信していった。
その時代が、部族間抗争の激しい、言わば日本の戦国時代に似た時代であって、人々は救いを求めていて、それに答えて・・・。日本では、そこに蓮如が現れた。そこで蓮如がムハンマドのように勝ち続けていたら・・・。・・・ふ~ん。日本にもありえたんだ。
それはそうと、ムハンマドの後継者、カリフの地位ね。血統主義的な考え方が、どうやらイスラム以前から強かった様子。ムハンマドが死んだ段階で最も近い身内だ娘と娘婿。しかし、最初のカリフになったのは、ムハンマドより少々年少ながら、自分の娘、たった9歳にすぎないアイーシャを56歳のムハンマドに嫁がせたアブー・バクル。
アブー・バクルが2年で世を去ると、2代カリフになったのはムハンマドの盟友で征戦に活躍したウマル。ウマルの娘もムハンマドの妻のひとり。ウマルは戦いの才能に恵まれ、エジプトやシリアをイスラム教とする。エルサレムを支配下としたウマルは、ジズヤを取り立てることでキリスト教徒、ユダヤ教徒に居住を許した。ユダヤの聖地を見聞したウマルは、そこだ同時にムハンマドが昇天した地であると確信し、メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とした。現在の岩のドームである。
ウマルは友人の所有する奴隷に刺されるというあっけない死に方をする。ウマルの指名を受けて3代目のカリフとなったのはウスマーンである。ウスマーンはムハンマドの娘2人を妻とする娘婿である。彼の代、651年に遠征軍を起こし、ササン朝ペルシャ最後の皇帝ヤズデゲルド3世を破り、ササン朝ペルシャを滅亡させた。しかし、イスラム内部の部族対立や貧富の差を原因とする不満を抑えることはできなかった。結果、反乱軍によりあっけなく殺害される。
4代カリフはムハンマドの父方の従弟でムハンマドの父の従姉妹を母に持つアリー。彼はムハンマドの娘ファーティマと結婚し、ムハンマドの養子にもなった。前3代のカリフに比べて、圧倒的にムハンマドとの距離が近い。ムハンマドを含み全員がクライシュ族であるが、アブー・バクルはタイム家、ウマルはアディー家、ウスマーンはウマイヤ家、アリーはムハンマドと同じハーシム家。
同じクライシュ族でも、血統主義的志向の強いアラブにおいては家系間の対立は決して簡単ではない。ウマイヤ家の中にはウスマーンの死の背景にアリーの存在を確信するムアーウィアのような人物もいて、これはカリフの地位をめぐる抗争に発展する。結局、お互いに兵を動員しての争いとなる。このあと、ムアーウィアはダマスクスでカリフを名のる。
アリー派から分派したハワーリジュ派は、アリー派もムアーウィア派もどちらも敵視し、刺客を送った。ムアーウィアは刺客をしのいだものの、アリーは礼拝中に刺殺された。アリーには二人の息子がおり、当然、ムアーウィア派の対抗勢力となる。兄のハサンはムアーウィアとの戦いに効果を上げられないまま死去。ムアーウィアは、弟のフサインを無視して自分の子供であるヤズィードを次にカリフとし、正統カリフ時代は完全に終わる。
ヤズィードは後、カルバラーでフサインの一族を根絶やしにし(カルバラーの悲劇)、反対勢力を一掃した。このアリーの子孫だけが正当なカリフでありイスラム共同体を率いることができるとするのがシーア派である。


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血統主義への思い入れが強いんだな。これは宗教というよりも、それ以前の地域性かな。部族性っていうのかな。もう一つ重要なのは、該当地域の発展段階か。今でも、部族主義、氏族主義が徹底してるもんね。そういう意味ではムハンマドの頃も今も、あんまり変わっていないんだな。
主役はムハンマド。ムハンマドを、私たちのムハンマドたらしめる最大のものは、教えの何たるかではない。第一に、軍事的指揮官として極めて優秀であったということだ。迫害から逃れるためにメッカからメディナに本拠を移して反対勢力と戦い続け、624年のバドルの戦い、625年のウフドの戦い、627年のハンダクの戦いなど、常に勝ち続けた。これらの戦いに一度でも負けて入れば、その後のイスラム教の発展はなかった。勝ち続けたことによって、信徒たちはムハンマドが「最後の預言者」であることを確信していった。
その時代が、部族間抗争の激しい、言わば日本の戦国時代に似た時代であって、人々は救いを求めていて、それに答えて・・・。日本では、そこに蓮如が現れた。そこで蓮如がムハンマドのように勝ち続けていたら・・・。・・・ふ~ん。日本にもありえたんだ。
『逆説の世界史 2』 井沢元彦 小学館 ¥ 1,782一神教のタブーと民族差別 |
それはそうと、ムハンマドの後継者、カリフの地位ね。血統主義的な考え方が、どうやらイスラム以前から強かった様子。ムハンマドが死んだ段階で最も近い身内だ娘と娘婿。しかし、最初のカリフになったのは、ムハンマドより少々年少ながら、自分の娘、たった9歳にすぎないアイーシャを56歳のムハンマドに嫁がせたアブー・バクル。
アブー・バクルが2年で世を去ると、2代カリフになったのはムハンマドの盟友で征戦に活躍したウマル。ウマルの娘もムハンマドの妻のひとり。ウマルは戦いの才能に恵まれ、エジプトやシリアをイスラム教とする。エルサレムを支配下としたウマルは、ジズヤを取り立てることでキリスト教徒、ユダヤ教徒に居住を許した。ユダヤの聖地を見聞したウマルは、そこだ同時にムハンマドが昇天した地であると確信し、メッカ、メディナに次ぐ第三の聖地とした。現在の岩のドームである。
ウマルは友人の所有する奴隷に刺されるというあっけない死に方をする。ウマルの指名を受けて3代目のカリフとなったのはウスマーンである。ウスマーンはムハンマドの娘2人を妻とする娘婿である。彼の代、651年に遠征軍を起こし、ササン朝ペルシャ最後の皇帝ヤズデゲルド3世を破り、ササン朝ペルシャを滅亡させた。しかし、イスラム内部の部族対立や貧富の差を原因とする不満を抑えることはできなかった。結果、反乱軍によりあっけなく殺害される。
4代カリフはムハンマドの父方の従弟でムハンマドの父の従姉妹を母に持つアリー。彼はムハンマドの娘ファーティマと結婚し、ムハンマドの養子にもなった。前3代のカリフに比べて、圧倒的にムハンマドとの距離が近い。ムハンマドを含み全員がクライシュ族であるが、アブー・バクルはタイム家、ウマルはアディー家、ウスマーンはウマイヤ家、アリーはムハンマドと同じハーシム家。
同じクライシュ族でも、血統主義的志向の強いアラブにおいては家系間の対立は決して簡単ではない。ウマイヤ家の中にはウスマーンの死の背景にアリーの存在を確信するムアーウィアのような人物もいて、これはカリフの地位をめぐる抗争に発展する。結局、お互いに兵を動員しての争いとなる。このあと、ムアーウィアはダマスクスでカリフを名のる。
アリー派から分派したハワーリジュ派は、アリー派もムアーウィア派もどちらも敵視し、刺客を送った。ムアーウィアは刺客をしのいだものの、アリーは礼拝中に刺殺された。アリーには二人の息子がおり、当然、ムアーウィア派の対抗勢力となる。兄のハサンはムアーウィアとの戦いに効果を上げられないまま死去。ムアーウィアは、弟のフサインを無視して自分の子供であるヤズィードを次にカリフとし、正統カリフ時代は完全に終わる。
ヤズィードは後、カルバラーでフサインの一族を根絶やしにし(カルバラーの悲劇)、反対勢力を一掃した。このアリーの子孫だけが正当なカリフでありイスラム共同体を率いることができるとするのがシーア派である。


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