清朝の変化(覚書)『教科書で教えたい真実の中国近現代史』 宮脇淳子
漢書地理志に出てくる紀元2年の人口が5959万4978人、およそ6000万人。それが、王莽の新崩壊の混乱で半減し、光武帝の再統一までにさらに半減したといわれて、およそ1500万人。後漢の安定期に5000万人台まで回復したが、184年の黄巾の乱勃発から50年の230年代には450万人。打ち分けは、魏が250万、呉が150万、蜀が100万。希薄化した地域に流入した五胡を考えれば、従来の漢族はほぼ滅亡。
本によっては、ここまで少なくない。ずいぶん前に紹介したことがあるけど、『貝と羊の中国人』という本によれば、《770万人》という数字になる。いずれにしても少ない。
その後、安定期を迎えても、その数字が6000万を越えることはなく、明代に至ってようやく6000万の線を上下し、清代18世紀初め以降急増する。康熙帝の時代に1億を突破、1726年には2億、1790年には3億、道光帝の時代の1837年には4億を越えた。
原因はアメリカ大陸原産の食材がもたらされたことで、中でも新たなカロリー源としてトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモが登場したことの意味は大きい。
人口急増の影響はまことに深刻で、これが華僑の海外進出の一因となった。18世紀に入り、最初が福建人、続いて潮州人、海南人、客家人、広東人と続く。この世紀の終わりには、移住先の東南アジアから、さらにオーストラリア、オセアニア、アメリカ、西インドにも広がった。
清朝の内部における人の移動も激しかった。明から清への混乱の影響を強く受け、四川省は人口が減少していた。18世紀になると、そこへ湖北省あたりからの移住が進んだ。成功者が良質な土地を占拠し、失敗者たちは山地にまで分け入って貧しい生活に甘んじた。これら不安定な生活を送る者たちの間に白蓮教の信仰が広まった。清朝の弾圧をうけた白蓮教徒は1796年に蜂起し、1804年までつづいた。
さらに奥地に分け入った者たちもいた。雲南省には、もともと漢人とは異なる民族が生活をしていた。そこへ多数の漢人が流入し、耕地の開発を進めた。銀や銅を産出する雲南では、鉱山も移住民の働き場所となった。清の管理は追いつかず、移住民は出身地ごとにまとまりを作って生活した。
この地には、モンゴル時代以降、イスラム教徒も、回民と呼ばれて生活していた。漢語を話し、漢人と見た目も変わらない回民も多かった。
19世紀、雲南省西部で回民と漢人のいざこざが繰り返されるようになり、対立の構図が明確になり、やがて回民の大量虐殺事件が起こる。それを原因として、対立は1849年の大動乱につながり、1872年まで続く反乱へと発展する。

清朝皇帝とは、・・・。
漢人にとっては、伝統的な皇帝。つまり支配者。満洲人にとっては、部族長会議の議長。モンゴル人にとっては、チンギス・ハーン以来の大ハーン。チベット人にとっては、チベット仏教の最高施主。ウイグル人にとってはジューンガル帝国からの保護者。
モンゴル、チベット、東トルキスタンは藩部と呼ばれ、種族自治が原則で、言語も文字も、法も違う高度な自治が実現されていた。
著者は、清朝斜陽の一因を、乾隆帝時代に、長い間抗争を続けていたジューンガル帝国を滅ぼすことに成功したことからくる安心感に求めている。確かにありえるが、それと同時に、新たな難題を抱えつつあったことも事実で、上記の人口急増からくる国内問題も、重代な問題の一つだったはず。
さて、清の支配が徐々に同様していく中、幾多の放棄やら反乱やらは満洲やモンゴルの八旗軍の手に負えず、結局これらの鎮圧には、郷団と呼ばれる地方軍によるところが大きかった。
科挙の行われる支那では、地方の名門一族の秀才が科挙合格を目指す。科挙合格者が地方官となるとき、癒着を恐れてけっして自分の地元に赴任することはない。地方によって言葉の違う支那では、地方官は地元の知識人に頼ることになる。これを郷紳という。郷紳とその一族は地方の名士で、地方においては絶大な影響力を持っており、中央と地方を結ぶ役割を果たした。彼らが地方軍の小軍団を形成した。
そこへ曽国藩、李鴻章、左宗棠ら、科挙合格者が帰って小軍団をまとめ上げる。これが郷団でnある。
1864年、清朝の守護する東トルキスタンで回民の反乱が起こる。ヤークーブ・ベクの乱である。これを鎮圧したのが左宗棠の湘軍で、1884年、清朝は新疆省を設置して、大清帝国の性格を根本から変えた。それまでの、満洲人がモンゴル人と連合して支那を統治し、チベット人とイスラム教徒を保護するという建前が、完全に崩れた。満洲人が連合する相手は漢人に変わり、満漢が協力して、モンゴル、チベット、イスラムを支配する国になる。

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本によっては、ここまで少なくない。ずいぶん前に紹介したことがあるけど、『貝と羊の中国人』という本によれば、《770万人》という数字になる。いずれにしても少ない。
その後、安定期を迎えても、その数字が6000万を越えることはなく、明代に至ってようやく6000万の線を上下し、清代18世紀初め以降急増する。康熙帝の時代に1億を突破、1726年には2億、1790年には3億、道光帝の時代の1837年には4億を越えた。
原因はアメリカ大陸原産の食材がもたらされたことで、中でも新たなカロリー源としてトウモロコシ、ジャガイモ、サツマイモが登場したことの意味は大きい。
人口急増の影響はまことに深刻で、これが華僑の海外進出の一因となった。18世紀に入り、最初が福建人、続いて潮州人、海南人、客家人、広東人と続く。この世紀の終わりには、移住先の東南アジアから、さらにオーストラリア、オセアニア、アメリカ、西インドにも広がった。
清朝の内部における人の移動も激しかった。明から清への混乱の影響を強く受け、四川省は人口が減少していた。18世紀になると、そこへ湖北省あたりからの移住が進んだ。成功者が良質な土地を占拠し、失敗者たちは山地にまで分け入って貧しい生活に甘んじた。これら不安定な生活を送る者たちの間に白蓮教の信仰が広まった。清朝の弾圧をうけた白蓮教徒は1796年に蜂起し、1804年までつづいた。
さらに奥地に分け入った者たちもいた。雲南省には、もともと漢人とは異なる民族が生活をしていた。そこへ多数の漢人が流入し、耕地の開発を進めた。銀や銅を産出する雲南では、鉱山も移住民の働き場所となった。清の管理は追いつかず、移住民は出身地ごとにまとまりを作って生活した。
この地には、モンゴル時代以降、イスラム教徒も、回民と呼ばれて生活していた。漢語を話し、漢人と見た目も変わらない回民も多かった。
19世紀、雲南省西部で回民と漢人のいざこざが繰り返されるようになり、対立の構図が明確になり、やがて回民の大量虐殺事件が起こる。それを原因として、対立は1849年の大動乱につながり、1872年まで続く反乱へと発展する。
『教科書で教えたい真実の中国近現代史』 宮脇淳子 柏艪舎 ¥ 1,836偏見やイデオロギーに囚われず、中国近現代史を直視する |
清朝皇帝とは、・・・。
漢人にとっては、伝統的な皇帝。つまり支配者。満洲人にとっては、部族長会議の議長。モンゴル人にとっては、チンギス・ハーン以来の大ハーン。チベット人にとっては、チベット仏教の最高施主。ウイグル人にとってはジューンガル帝国からの保護者。
モンゴル、チベット、東トルキスタンは藩部と呼ばれ、種族自治が原則で、言語も文字も、法も違う高度な自治が実現されていた。
著者は、清朝斜陽の一因を、乾隆帝時代に、長い間抗争を続けていたジューンガル帝国を滅ぼすことに成功したことからくる安心感に求めている。確かにありえるが、それと同時に、新たな難題を抱えつつあったことも事実で、上記の人口急増からくる国内問題も、重代な問題の一つだったはず。
さて、清の支配が徐々に同様していく中、幾多の放棄やら反乱やらは満洲やモンゴルの八旗軍の手に負えず、結局これらの鎮圧には、郷団と呼ばれる地方軍によるところが大きかった。
科挙の行われる支那では、地方の名門一族の秀才が科挙合格を目指す。科挙合格者が地方官となるとき、癒着を恐れてけっして自分の地元に赴任することはない。地方によって言葉の違う支那では、地方官は地元の知識人に頼ることになる。これを郷紳という。郷紳とその一族は地方の名士で、地方においては絶大な影響力を持っており、中央と地方を結ぶ役割を果たした。彼らが地方軍の小軍団を形成した。
そこへ曽国藩、李鴻章、左宗棠ら、科挙合格者が帰って小軍団をまとめ上げる。これが郷団でnある。
1864年、清朝の守護する東トルキスタンで回民の反乱が起こる。ヤークーブ・ベクの乱である。これを鎮圧したのが左宗棠の湘軍で、1884年、清朝は新疆省を設置して、大清帝国の性格を根本から変えた。それまでの、満洲人がモンゴル人と連合して支那を統治し、チベット人とイスラム教徒を保護するという建前が、完全に崩れた。満洲人が連合する相手は漢人に変わり、満漢が協力して、モンゴル、チベット、イスラムを支配する国になる。


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