『縄文美術館』 小川忠博写真
国立西洋美術館館長の青柳正規さんが巻頭の言葉を書いておられる。その中にこうあるんですね。
うまいことを言うもんだ。巻頭の言葉なのにあとから読んだんだけど、ド素人の私の感覚でも、「これまでに見たことのある縄文の写真集とは違う」と、何となく感じる部分があった。残念ながら、言葉で表現するには至らなかったけど、こういう言葉を読ませてもらうと納得できる。私のなかで、縄文文化のイメージの一端が、明らかな形となって納まった。
道具を使って私たちは生活する。それを使って、身の回りのすべてを賄っていく。畑を耕し、獣を追いかけ、木の実を拾い、魚の影を探し、薪を集め、縄をない、切り、結び、裁ち、火にかけ、よそい、・・・。私が幼い時分、大人たちはそういう生活をしていた。わたしが大人になる頃にはなくなってしまっていたけどね。だけどいろいろな道具を使って遊んだよ。兄貴たちに置いて行かれて一人になっても、納屋に入れば一日中わるさができた。
この本で縄文の写真を見て、すんなり落ちてくるのは、まずは道具だね。食料を獲得し、分けあって食べる。そのことに関しては、なにも変わりがない。道具は雄弁に物語る。


縄目の文様の土器や、いわるゆ火焔土器。それから土偶ね。一つひとつに、それぞれの味わいがあるのはもちろんとして、それとは別次元で、《ある種の具体性》を見た者につかませるためには、“量”が絶対的に必要であると感じさせられた。「たとえ少しでも、いいものを・・・」ではいけない。「いいものをたくさん」見せなければ、その時代を明らかな具体性を持って理解させることは不可能。不可能じゃないな。でも、「いいものをたくさん」見せれば、そんだけで一発。そんだけの力はあるよね。
なんかさ~、縄文って、すごく素直だよね。まっすぐでさ。それだけで、とことん突きつめているから、濁りなくて、高さを感じますよね。とても遠いんだけど、澄んでいるから細部までくっきり見える。見えるけどとても届かない。
ちょっと酔っ払っちゃってるから、この本の話とは離れちゃうけど、もしも、諸般の状況が許すなら、自分は何かを作って生きていきたかった。もとが貧乏だから、そんな不確かな選択肢はなかったんだけどね。そういうふうに意識をしたのは、あと数年で定年を迎えることになる今の職業について2・3年が過ぎた頃だった。納屋にいろいろな道具があったからね。見よう見まねで、一人でいろいろなものを作ったもんだけど。いったいどこで、“作る”ってことを封じ込めたのか。
実はわかりきったことで、私は山で生きたかったんだな。山っていうのは、登山家という意味ではなくて、・・・。日本人の生活はもっともっと山に依存していた。だから当然、山を大事にして生きていた。私も山を大事にして、山の恵によって生きることができたらな。どんなに良かったろうな。明らかに生まれるのが遅すぎた。少なくともあと、5000年早く生まれていたら、・・・。
山も、圧倒的に豊かだったろうしね。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
縄文文化をこれほど鮮明に映しだした写真によるイメージの集まりを、私は見たことがない。隔靴掻痒ぎみで、遠くにぼやけていた縄文文化のイメージが、ようやく手に取ることができるような具体性と詳細を持って本書に再現されているのである |
うまいことを言うもんだ。巻頭の言葉なのにあとから読んだんだけど、ド素人の私の感覚でも、「これまでに見たことのある縄文の写真集とは違う」と、何となく感じる部分があった。残念ながら、言葉で表現するには至らなかったけど、こういう言葉を読ませてもらうと納得できる。私のなかで、縄文文化のイメージの一端が、明らかな形となって納まった。
道具を使って私たちは生活する。それを使って、身の回りのすべてを賄っていく。畑を耕し、獣を追いかけ、木の実を拾い、魚の影を探し、薪を集め、縄をない、切り、結び、裁ち、火にかけ、よそい、・・・。私が幼い時分、大人たちはそういう生活をしていた。わたしが大人になる頃にはなくなってしまっていたけどね。だけどいろいろな道具を使って遊んだよ。兄貴たちに置いて行かれて一人になっても、納屋に入れば一日中わるさができた。
この本で縄文の写真を見て、すんなり落ちてくるのは、まずは道具だね。食料を獲得し、分けあって食べる。そのことに関しては、なにも変わりがない。道具は雄弁に物語る。
『縄文美術館』 小川忠博写真 平凡社 ¥ 2,700過ごしてきた人生が、悠久の流れの中に溶け込んでいく |
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なんかさ~、縄文って、すごく素直だよね。まっすぐでさ。それだけで、とことん突きつめているから、濁りなくて、高さを感じますよね。とても遠いんだけど、澄んでいるから細部までくっきり見える。見えるけどとても届かない。
ちょっと酔っ払っちゃってるから、この本の話とは離れちゃうけど、もしも、諸般の状況が許すなら、自分は何かを作って生きていきたかった。もとが貧乏だから、そんな不確かな選択肢はなかったんだけどね。そういうふうに意識をしたのは、あと数年で定年を迎えることになる今の職業について2・3年が過ぎた頃だった。納屋にいろいろな道具があったからね。見よう見まねで、一人でいろいろなものを作ったもんだけど。いったいどこで、“作る”ってことを封じ込めたのか。
実はわかりきったことで、私は山で生きたかったんだな。山っていうのは、登山家という意味ではなくて、・・・。日本人の生活はもっともっと山に依存していた。だから当然、山を大事にして生きていた。私も山を大事にして、山の恵によって生きることができたらな。どんなに良かったろうな。明らかに生まれるのが遅すぎた。少なくともあと、5000年早く生まれていたら、・・・。
山も、圧倒的に豊かだったろうしね。


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