『死者は生きている』 町田宗鳳
題名が衝撃的ですよね。・・・『死者は生きている』・・・もう、私はどうしたらいいんでしょう。
こんな言葉が紹介されているけど、著者の言いたいのはこういうこと?・・・もっともっと、踏み込んでいるように感じられるんだけど。
《愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ。 『イン・メモリアム』アルフレッド・テスニン》
《悲しみに声を立てなさい。口に出さない悲しいは、荷の勝ち過ぎた心臓にささやいて、それを破裂させるのだ。『マクベス』シェイクスピア》
著者の町田宗鳳さんはお坊さま。臨済宗だって。14歳で出家して20年間修業。34歳で寺を離れて、アメリカで比較宗教、比較文明の分野で学究の生活を送ったそうです。《寺を離れ・・・》というのは、還俗も意味するのかな。書いていることを見ると、仏教を離れているようにも感じる部分があるんだけど。

私の兄の友人で、山岳部の先輩にコッペさんという方がいて、この人、とても頭のいい人で、東大をめざして一年浪人していたんだけど、受験シーズンを目前にして出家してしまった。兄が同じ浪人仲間で仲も良かったこともあって、ある日の夜中に、その決意を告げに来た。
春を待たずに建長寺に入ったから、町田さんと宗派は同じ。あれから、もう38年になろうとしている。コッペさんは、いろいろな誘いがありながらも、結局、寺も世帯も持たなかった。兄の話では、“一僧侶”として生きているとのこと。その生き方は、著者の町田さんとは違うみたいだな。
とても興味深く読みました。《死》をどう認識するかによって、生き方はまるきり違ってくる。そして、その認識には、当然さまざまなものがあっていい。地域によって特殊性を持つだろうし、時代によっても移り変わるもののはず。多くの宗教は死後を直接語っているし、それをもとに“生”をとらえている人も多い。
日本人は、自分を無宗教のように認識している人が多いが、“信仰心”という言葉に置き換えてみれば、結構、宗教的生活を送っている人が多い。自然に畏れ入るその生活態度自体が宗教的だが、同時にその多くは父母、祖父母、ご先祖様を仏様に供養し、死者とのつながりの中で自分を認識している。
じつは私、その程度のことで十分だと思ってましてね。というのは、それ以上のことを求めようとすれば、どうしたって人間は、確認することができない領域に思いを馳せなければならなくなる。古今東西の言葉に関連を求める人もいる。でも、古今東西の言葉はとてつもなくたくさんある。その中から、自分の思いに叶う言葉を見つけたとしても、必ず正反対の言葉が存在する。臨死体験をした人の話もよく出てくる。でもその人、結局は死んでない。なのに無理をすると、・・・
ここまで言ったら、もはや私には、危うい話にしか聞こえなくなります。もちろん著者は、より良く生きるために、すぐ隣に寄り添う死者、迎え入れるべき死について語っているわけでしょう。参考になる場面も多々あって、それを悪意に取るつもりは毛頭ないんだけど、著者は明らかに、立証不可能な領域に踏み込んでいます。
私には、「死者も、私と同じような生を生きた。みんなが歩んだ道を、自分も歩んでいる」。それで十分。
“一僧侶”として生きているというコッペさん。いつか逢えるかな。「出家する」って兄に話しに来た夜。コッペさんから預かったものがあって、スピード違反の切符。出家する直前にバイクでスピード違反して、その罰金、私が払ったんだよな~。・・・逢いたいなあ。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
ほんとうに出会った者に別れはこない あなたはまだそこにいる 目をみはり私をみつめ くり返し私に語りかける あなたとの思い出が私を生かす 初めてあなたを見た日からこんなに時が過ぎた今も 『あなたはそこにいる』谷川俊太郎 |
《愛し、そして喪ったということは、いちども愛したことがないよりも、よいことなのだ。 『イン・メモリアム』アルフレッド・テスニン》
《悲しみに声を立てなさい。口に出さない悲しいは、荷の勝ち過ぎた心臓にささやいて、それを破裂させるのだ。『マクベス』シェイクスピア》
著者の町田宗鳳さんはお坊さま。臨済宗だって。14歳で出家して20年間修業。34歳で寺を離れて、アメリカで比較宗教、比較文明の分野で学究の生活を送ったそうです。《寺を離れ・・・》というのは、還俗も意味するのかな。書いていることを見ると、仏教を離れているようにも感じる部分があるんだけど。
『死者は生きている』 町田宗鳳 筑摩書房 ¥ 1,728「見えざるもの」と私たちの幸福 |
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私の兄の友人で、山岳部の先輩にコッペさんという方がいて、この人、とても頭のいい人で、東大をめざして一年浪人していたんだけど、受験シーズンを目前にして出家してしまった。兄が同じ浪人仲間で仲も良かったこともあって、ある日の夜中に、その決意を告げに来た。
春を待たずに建長寺に入ったから、町田さんと宗派は同じ。あれから、もう38年になろうとしている。コッペさんは、いろいろな誘いがありながらも、結局、寺も世帯も持たなかった。兄の話では、“一僧侶”として生きているとのこと。その生き方は、著者の町田さんとは違うみたいだな。
とても興味深く読みました。《死》をどう認識するかによって、生き方はまるきり違ってくる。そして、その認識には、当然さまざまなものがあっていい。地域によって特殊性を持つだろうし、時代によっても移り変わるもののはず。多くの宗教は死後を直接語っているし、それをもとに“生”をとらえている人も多い。
日本人は、自分を無宗教のように認識している人が多いが、“信仰心”という言葉に置き換えてみれば、結構、宗教的生活を送っている人が多い。自然に畏れ入るその生活態度自体が宗教的だが、同時にその多くは父母、祖父母、ご先祖様を仏様に供養し、死者とのつながりの中で自分を認識している。
じつは私、その程度のことで十分だと思ってましてね。というのは、それ以上のことを求めようとすれば、どうしたって人間は、確認することができない領域に思いを馳せなければならなくなる。古今東西の言葉に関連を求める人もいる。でも、古今東西の言葉はとてつもなくたくさんある。その中から、自分の思いに叶う言葉を見つけたとしても、必ず正反対の言葉が存在する。臨死体験をした人の話もよく出てくる。でもその人、結局は死んでない。なのに無理をすると、・・・
生まれ変わりの最有力の証拠になるのは、子どもたちが記憶する前世の肉体と同じ場所に現れるアザ、ほくろ、傷あとなどですが、ほかにも仕草や嗜好にも継承されます。昔、酒、たばこ、セックスなどが好きな大人なら、早熟な子どもとして同じものに強い興味を示します。ごく稀に、前世で使っていた言語を憶えている子供もいます。最近、ようやく市民権を得るようになってきた性同一性障害も、過去において異なったジェンダーだったことに起因しているケースもあるように思います。 本書P128 |
ここまで言ったら、もはや私には、危うい話にしか聞こえなくなります。もちろん著者は、より良く生きるために、すぐ隣に寄り添う死者、迎え入れるべき死について語っているわけでしょう。参考になる場面も多々あって、それを悪意に取るつもりは毛頭ないんだけど、著者は明らかに、立証不可能な領域に踏み込んでいます。
私には、「死者も、私と同じような生を生きた。みんなが歩んだ道を、自分も歩んでいる」。それで十分。
“一僧侶”として生きているというコッペさん。いつか逢えるかな。「出家する」って兄に話しに来た夜。コッペさんから預かったものがあって、スピード違反の切符。出家する直前にバイクでスピード違反して、その罰金、私が払ったんだよな~。・・・逢いたいなあ。


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