『新史論 書き換えられた古代史 3』 関裕二
|2014年に出てたんだ。あ~あ、もう。『新史論』は2巻まで読んで、その後、気がつくたびに、「ずいぶん次が出るのが遅いな」とかって呑気に思ってたら、どんどん出てた。もう、6巻まで進んでた。あ~あ、もう。
そんなわけで、新鮮味にかけると思われる方も多いでしょうが、私としては、止まっていた時が、ようやく動き出したかのような、・・・そんな大層なことじゃないか。
3巻でスポットライトが当てられているのは、雄略天皇、継体天皇、そしてその時代を引き継ぎ、二人の天皇が成し遂げることができなかった新体制への改革を双肩に担って登場する“聖徳太子”ということになる。
大和朝廷の歴史ってのは、その成立段階から、北九州、出雲、瀬戸内、丹波、東海、越など、各地の勢力の絡み合いだった。その壮大な物語は、もはや、邪馬台国はどこにあったかなんてさしたる問題とも思えないほど。もちろん、それも、壮大な物語の中の一現象なわけだけどね。
雄略は、今でいう関東にまで支持されていた。関東は大和朝廷の技術で荒れ地を開墾し、人口が急増した。関東の急速な発展が雄略を支えた。それによって、瀬戸内・東海によって運営されてきた大和朝廷の時代に変化が起きた。
日本海・関東が大きな力をつけたことを証明したのが、継体の登場。継体は中央集権体制への移行、百済一本の外交の転換など、体制の大転換に挑戦する。しかし、彼は、やがて旧勢力に取り込まれ、改革は頓挫する。
それを受け継ぐ世代で、改革への期待を双肩にになったのが、“聖徳太子”ということになるのだが・・・。
ここからが面白いところだよね。
瀬戸内海を握り続けた吉備の勢力こそが、物部氏。大和朝廷の成立にあたり、現在の大阪に根拠地を持った物部氏は、日本列島に広大な所有地と富を所有した。さて問題です。こののち行われる改革こと中央集権化は、隋・唐の律令制導入というかたちをとる。眼玉は“公地公民制”。「あらゆる土地を天皇に帰す」ってことですね。豪族たちの私有地を取り上げるところから始まるわけだ。さて、その時問題となる勢力は・・・?


上記のような情勢に絡んで、“聖徳太子”の頃の大きな出来事と言えば、仏教導入のいざこざをきっかけとする蘇我氏と物部氏の戦いで、物部守屋が滅んだこと。いったいこれの意味するところはなんだろうか。
物部氏っていうのは全国各地に根拠地を持ち、それだけに物部氏の決意なしに、改革への道はなかったはず。蘇我馬子は物部守屋の妹を妻としていた。つまり、蘇我と物部は、手打ちをしていた。しかし、あまりにも大きな物部氏という団体の中には、それをよしとしない勢力もあった。そういうことか。物部守屋しかり、中大兄皇子しかり・・・。
時代背景として、これと前後するできごとのなかに、歴史の真実が眠ってるのは間違いないだろうな。そして、蘇我氏と物部氏の手打ちの生き証人としての子供。この人物がカギを握ることになる。
最後に、馬子の子供に関して、次の覚書を残して、終わります。
ここは埼玉県のときがわ町。どうしてここに、《聖徳皇太子》の石碑があるんだろう。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
そんなわけで、新鮮味にかけると思われる方も多いでしょうが、私としては、止まっていた時が、ようやく動き出したかのような、・・・そんな大層なことじゃないか。
3巻でスポットライトが当てられているのは、雄略天皇、継体天皇、そしてその時代を引き継ぎ、二人の天皇が成し遂げることができなかった新体制への改革を双肩に担って登場する“聖徳太子”ということになる。
大和朝廷の歴史ってのは、その成立段階から、北九州、出雲、瀬戸内、丹波、東海、越など、各地の勢力の絡み合いだった。その壮大な物語は、もはや、邪馬台国はどこにあったかなんてさしたる問題とも思えないほど。もちろん、それも、壮大な物語の中の一現象なわけだけどね。
雄略天皇こと、ワカタケルオオキミ。私、けっこう馴染みにしてました。埼玉県行田市の《さきたま古墳公園》に、よく行ったのよ。子供が、子供の頃。古墳の上走り回ったり、そこにあるお店で、埴輪作らせてくれるのよ。確か1000円。焼き上げて送ってくれるの。今でもうちの玄関先には、何体か転がってるよ。もちろん、資料館で鉄剣も見ました。ワカタケルオオキミって、書いてありました。ハイ・・・ | ![]() |
日本海・関東が大きな力をつけたことを証明したのが、継体の登場。継体は中央集権体制への移行、百済一本の外交の転換など、体制の大転換に挑戦する。しかし、彼は、やがて旧勢力に取り込まれ、改革は頓挫する。
それを受け継ぐ世代で、改革への期待を双肩にになったのが、“聖徳太子”ということになるのだが・・・。
ここからが面白いところだよね。
瀬戸内海を握り続けた吉備の勢力こそが、物部氏。大和朝廷の成立にあたり、現在の大阪に根拠地を持った物部氏は、日本列島に広大な所有地と富を所有した。さて問題です。こののち行われる改革こと中央集権化は、隋・唐の律令制導入というかたちをとる。眼玉は“公地公民制”。「あらゆる土地を天皇に帰す」ってことですね。豪族たちの私有地を取り上げるところから始まるわけだ。さて、その時問題となる勢力は・・・?
小学館新書 ¥ 778 《聖徳太子と物部氏の正体》・・・雄略、継体。物部氏の衰退と蘇我氏の勃興 |
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上記のような情勢に絡んで、“聖徳太子”の頃の大きな出来事と言えば、仏教導入のいざこざをきっかけとする蘇我氏と物部氏の戦いで、物部守屋が滅んだこと。いったいこれの意味するところはなんだろうか。
物部氏っていうのは全国各地に根拠地を持ち、それだけに物部氏の決意なしに、改革への道はなかったはず。蘇我馬子は物部守屋の妹を妻としていた。つまり、蘇我と物部は、手打ちをしていた。しかし、あまりにも大きな物部氏という団体の中には、それをよしとしない勢力もあった。そういうことか。物部守屋しかり、中大兄皇子しかり・・・。
時代背景として、これと前後するできごとのなかに、歴史の真実が眠ってるのは間違いないだろうな。そして、蘇我氏と物部氏の手打ちの生き証人としての子供。この人物がカギを握ることになる。
最後に、馬子の子供に関して、次の覚書を残して、終わります。
先代旧事本紀 宗我嶋大臣 | →豊浦大臣(入鹿) 物部鎌媛大刀自連公 | 元興寺伽藍縁起起并流記資材帳 巷奇有明子(蘇我馬子) | →善徳 大々王(物部氏の出) | 日本書紀 蘇我馬子 善徳 | → 物部守屋の妹 蝦夷ー入鹿 |
ここは埼玉県のときがわ町。どうしてここに、《聖徳皇太子》の石碑があるんだろう。


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