ベルサイユ体制(覚書)『戦争を始めるのは誰か 歴史修正主義の真実』 渡辺惣樹
1918年春、アメリカの参戦で、ドイツ軍の戦意を大きく削いだ。10月には講和条件を探る事態となった。宰相のマクシミリアン・フォン・バーデン伯が14か条の平和原則による講話をアメリカに打診すると、ウィルソン大統領は、英仏の軍事的優位の確保と皇帝の退位を条件に、英仏との間を取り持った。11月11日、休戦協定が成った。
仏は140万の命を失った。英は70万の命を失った。英仏は、ウィルソンからの持ちかけにいい顔をしなかったという。米国の単独講和をちらつかせて、ようやく休戦に納得させた。イギリスは、港湾封鎖により独の食料欠乏策を継続することを条件とした。仏は、独に完全なる賠償を求めることを条件とした。
講和会議のなかで、独は海外領土のすべてを失ったのに加えて、ヨーロッパ大陸の領土も切り刻まれた。
ベルサイユ条約第231条
「連合国とその国民が被った犠牲の原因はすべてドイツの侵略行為に起因する」
ベルサイユ条約賠償金問題を検討する委員として参加したケインズを含め、良識ある者によれば独の支払い可能限度額は100億ドルと見込まれたが、実際ドイツに押し付けられた賠償金は330億ドルであった。しかし、実際にこの額が決定したのは1921年である。
ベルサイユ条約の調印式は、1919年6月28日にベルサイユ宮殿鏡の間で行われた。この日は、オーストリア皇太子フェルディナントが暗殺された日であった。この日のドイツ代表は外務大臣に就任したヘルマン・ミューラーであるが、その調印の文書には、まだ賠償額は書かれていなかった。
本書p83に、米の歴史家のシドニー・フェイが1928年に発表した『第一次世界大戦の起源』をもとにした、ものすごく簡単な、ものすごく常識的な、同時にあまりにも無視されてきた、第一次世界大戦の原因が書かれているので“覚書”として残しておく。
《1914年6月28日のオーストリア皇太子フェルディナントの暗殺の責任はひとえにセルビアにあり、その責任を追及するオーストリアにドイツが加勢したこと。セルビアを支援するロシアがまず軍の動員をかけたこと。動員解除のドイツの要請を拒否したのはロシアであり、ロシアの態度を煽ったのがフランスであったこと。いつまでも態度を鮮明にせず、体裁だけの仲介に終始し、どちらの陣営にも期待を持たせながら最後に露仏側についたイギリスの外交政策は失敗であったこと》
独の賠償金支払いの遅延に業を煮やしたフランスが強硬策に出たのは1923年1月11日。ベルギーの一歩兵部隊を含む仏軍6万が、ドイツのルール地方を占領した。この地域の炭鉱を手中に収めることで賠償金に変えるという強制措置である。この地域に住む14万7000人が強制退去させられ、この過程で命を失った者は120人にのぼった。
独における仏占領地区で、黒人セネガル兵による独女性に対する強姦事件が多発した。過大な賠償金や強姦事件は独国民のプライドを著しく傷つけた。
こういった出来事の一つ一つの重なりが、ヒトラーの登場を準備していく。

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仏は140万の命を失った。英は70万の命を失った。英仏は、ウィルソンからの持ちかけにいい顔をしなかったという。米国の単独講和をちらつかせて、ようやく休戦に納得させた。イギリスは、港湾封鎖により独の食料欠乏策を継続することを条件とした。仏は、独に完全なる賠償を求めることを条件とした。
講和会議のなかで、独は海外領土のすべてを失ったのに加えて、ヨーロッパ大陸の領土も切り刻まれた。
- アルザス・ロレーヌは普仏戦争で独領となったが、仏領に戻された
- ザール地方は国際連盟の委任統治領となった
- ベルギーはプロシア時代からの領土であったオイペン・マルメディ地方を得た
- ラインラントは非武装化された。ここには、ケルン、フランクフルト、マンハイムを含む
- ユトランド半島はデンマークと争っていたが、住民投票が強行された結果、半島北部はデンマーク領となった
- 上シレジアでも住民投票が強制され、東部はポーランドに編入された
- ポズナンはプロシア時代からの領土であったが、ポーランドに割譲された
- ダンツィヒは、その住民の9割以上が独系であったが、自由都市として国際連盟の管理となった。同時に陸からのダンツィヒに通ずる地域がポーランド領(ポーランド回廊)となったため、ダンツィヒは完全に孤立した。第二次世界大戦は、独によるダンツィヒの回復要求がこじれたものである
ベルサイユ条約第231条
「連合国とその国民が被った犠牲の原因はすべてドイツの侵略行為に起因する」
ベルサイユ条約賠償金問題を検討する委員として参加したケインズを含め、良識ある者によれば独の支払い可能限度額は100億ドルと見込まれたが、実際ドイツに押し付けられた賠償金は330億ドルであった。しかし、実際にこの額が決定したのは1921年である。
ベルサイユ条約の調印式は、1919年6月28日にベルサイユ宮殿鏡の間で行われた。この日は、オーストリア皇太子フェルディナントが暗殺された日であった。この日のドイツ代表は外務大臣に就任したヘルマン・ミューラーであるが、その調印の文書には、まだ賠償額は書かれていなかった。
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本書p83に、米の歴史家のシドニー・フェイが1928年に発表した『第一次世界大戦の起源』をもとにした、ものすごく簡単な、ものすごく常識的な、同時にあまりにも無視されてきた、第一次世界大戦の原因が書かれているので“覚書”として残しておく。
《1914年6月28日のオーストリア皇太子フェルディナントの暗殺の責任はひとえにセルビアにあり、その責任を追及するオーストリアにドイツが加勢したこと。セルビアを支援するロシアがまず軍の動員をかけたこと。動員解除のドイツの要請を拒否したのはロシアであり、ロシアの態度を煽ったのがフランスであったこと。いつまでも態度を鮮明にせず、体裁だけの仲介に終始し、どちらの陣営にも期待を持たせながら最後に露仏側についたイギリスの外交政策は失敗であったこと》
独の賠償金支払いの遅延に業を煮やしたフランスが強硬策に出たのは1923年1月11日。ベルギーの一歩兵部隊を含む仏軍6万が、ドイツのルール地方を占領した。この地域の炭鉱を手中に収めることで賠償金に変えるという強制措置である。この地域に住む14万7000人が強制退去させられ、この過程で命を失った者は120人にのぼった。
独における仏占領地区で、黒人セネガル兵による独女性に対する強姦事件が多発した。過大な賠償金や強姦事件は独国民のプライドを著しく傷つけた。
こういった出来事の一つ一つの重なりが、ヒトラーの登場を準備していく。


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