乙巳の変と日本書紀(覚書)『新史論4 天智と天武 日本書紀の真相』 関裕二
聖徳太子が聖者であればあるほど、蘇我入鹿は大悪人になっていく。その視点の役割を担っていたのが山背大兄王であり、聖徳太子と山背大兄王はどちらも架空の存在である。聖徳太子という虚像に蘇我入鹿の業績を担わせたので、聖徳太子の末裔の一族には、蒸発するかのように、歴史から消えてもらう必要がある。その役割を蘇我入鹿に行わせることによって“入鹿悪人像”を確立し、「討たれて当然」という錯覚を作り出す。
3巻でも語られたところであるが、見事なしくみである。
本来、歴史というのは、自分の正当性を主張するために書かれた。ヘロドトスが『歴史』という題名で、ペルシャ戦争におけるギリシャの正当性を訴えたように。司馬遷が『史記』で武帝の支配の正統性を訴えたように。
にも関わらず、「日本の正史とされる『日本書紀』に書かれたことは正しい」という錯覚は、日本には王朝交代という実態がなかったからだろう。
しかし、『日本書紀』という歴史が書かれている。その理由は・・・。壬申の乱で勝利した天武天皇が自らの正当性を訴えるために。・・・たしかに。
たしかに、シナに強力な統一王朝が成立しつつある状況から始まった東アジア動乱のなかで、大和朝廷も白村江の敗戦という一大事を経て、壬申の乱によって新体制を整えつつあった。そこで、壬申の乱の勝者である天武天皇が、その正当性を訴える必要性が、『日本書紀』が編纂される理由であったことは間違いない。
しかし、それが世に出る時、天武天皇は、すでにこの世になかった。その時、権力の地位にあったのは藤原不比等であった。
「日本には王朝交代という実態がなかった」から、それ以前の歴史を捻じ曲げてまで自らを正当化しなければならない必然性はなかった。自らの正当性を主張する可能性のあるのは天武天皇であるが、それがために大きく真実を歪めているあとは見られない。
そのように考えて、『日本書紀』を正史ととらえる。
だけど、日本には、王朝の交代に匹敵する政変があった。その立役者となったのは、中大兄皇子と中臣鎌足であり、中臣鎌足の息子が藤原鎌足である。『日本書紀』が世に出る時、権力の地位にあったのは、藤原鎌足であった。


だけど、日本書紀による歴史の捏造は、すごい大胆だ。あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにしている。これは単に、藤原不比等の権力に、周りは何も言えずに口をつぐんだというのとはちょっと違う。
藤原家ににらまれるのが恐ろしいということもあるにしろ、それだけで、これほどまでの歴史を捏造することは不可能だ。口をつぐまなければならない、何かほかの理由があったんだろう。
それは、中大兄皇子と中臣鎌足のやったことを、洗いざらい世に問おうとすれば、自然と自分や、自分の父祖の行為を世に問うことになるということだろう。つまり、積極的なものであるかどうかはともかく、自分たちも加担者でらるということ。
入鹿を当主とする蘇我本宗家は、東アジア世界新秩序に対応するための国家改革の旗振り役であり、原動力だった。大和朝廷最大の勢力を持つ物部氏との間においても、双方血を流しつつも、なんとか改革勢力に取り込むことに成功し、まさにここから改革は新たな段階に入るというところまで来ていた。
改革は、どうしたって“痛み”を伴う。それを覚悟で、大和朝廷は皇極天皇を中心に、国を上げて改革を推進するというところまで来ていた。そこへ中大兄皇子と中臣鎌足のコンビが登場する。その望むところは、改革云々にはない。それぞれ単に、私利私欲である。ただし、私利私欲を満足させるためには、どうしても蘇我入鹿を倒す必要がある。「疎外の入鹿がいなければ・・・」、その一点で、彼らは改革に反発を抱く者たちの口をつぐませたのだ。
日本書紀が世に出たとき、彼らがその、あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにしている日本書紀に何も言えなかったのは、蘇我入鹿が倒されたときに、蘇我派の側に立って糾弾の声を上げなかったから。改革派の原動力である蘇我本宗家が倒されたことで、旧来の自分の権益が守られると、改革派の抗議の声を押しつぶした段階で、何も言えない存在になってしまっていたのだろう。

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3巻でも語られたところであるが、見事なしくみである。
本来、歴史というのは、自分の正当性を主張するために書かれた。ヘロドトスが『歴史』という題名で、ペルシャ戦争におけるギリシャの正当性を訴えたように。司馬遷が『史記』で武帝の支配の正統性を訴えたように。
にも関わらず、「日本の正史とされる『日本書紀』に書かれたことは正しい」という錯覚は、日本には王朝交代という実態がなかったからだろう。
しかし、『日本書紀』という歴史が書かれている。その理由は・・・。壬申の乱で勝利した天武天皇が自らの正当性を訴えるために。・・・たしかに。
たしかに、シナに強力な統一王朝が成立しつつある状況から始まった東アジア動乱のなかで、大和朝廷も白村江の敗戦という一大事を経て、壬申の乱によって新体制を整えつつあった。そこで、壬申の乱の勝者である天武天皇が、その正当性を訴える必要性が、『日本書紀』が編纂される理由であったことは間違いない。
しかし、それが世に出る時、天武天皇は、すでにこの世になかった。その時、権力の地位にあったのは藤原不比等であった。
「日本には王朝交代という実態がなかった」から、それ以前の歴史を捻じ曲げてまで自らを正当化しなければならない必然性はなかった。自らの正当性を主張する可能性のあるのは天武天皇であるが、それがために大きく真実を歪めているあとは見られない。
そのように考えて、『日本書紀』を正史ととらえる。
だけど、日本には、王朝の交代に匹敵する政変があった。その立役者となったのは、中大兄皇子と中臣鎌足であり、中臣鎌足の息子が藤原鎌足である。『日本書紀』が世に出る時、権力の地位にあったのは、藤原鎌足であった。
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だけど、日本書紀による歴史の捏造は、すごい大胆だ。あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにしている。これは単に、藤原不比等の権力に、周りは何も言えずに口をつぐんだというのとはちょっと違う。
藤原家ににらまれるのが恐ろしいということもあるにしろ、それだけで、これほどまでの歴史を捏造することは不可能だ。口をつぐまなければならない、何かほかの理由があったんだろう。
それは、中大兄皇子と中臣鎌足のやったことを、洗いざらい世に問おうとすれば、自然と自分や、自分の父祖の行為を世に問うことになるということだろう。つまり、積極的なものであるかどうかはともかく、自分たちも加担者でらるということ。
入鹿を当主とする蘇我本宗家は、東アジア世界新秩序に対応するための国家改革の旗振り役であり、原動力だった。大和朝廷最大の勢力を持つ物部氏との間においても、双方血を流しつつも、なんとか改革勢力に取り込むことに成功し、まさにここから改革は新たな段階に入るというところまで来ていた。
改革は、どうしたって“痛み”を伴う。それを覚悟で、大和朝廷は皇極天皇を中心に、国を上げて改革を推進するというところまで来ていた。そこへ中大兄皇子と中臣鎌足のコンビが登場する。その望むところは、改革云々にはない。それぞれ単に、私利私欲である。ただし、私利私欲を満足させるためには、どうしても蘇我入鹿を倒す必要がある。「疎外の入鹿がいなければ・・・」、その一点で、彼らは改革に反発を抱く者たちの口をつぐませたのだ。
日本書紀が世に出たとき、彼らがその、あったことをなかったことにし、なかったことをあったことにしている日本書紀に何も言えなかったのは、蘇我入鹿が倒されたときに、蘇我派の側に立って糾弾の声を上げなかったから。改革派の原動力である蘇我本宗家が倒されたことで、旧来の自分の権益が守られると、改革派の抗議の声を押しつぶした段階で、何も言えない存在になってしまっていたのだろう。


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