『先生、日本ってすごいね』 服部剛
《戦場の知事 島田叡=沖縄の島守》
兵庫県神戸市出身。内務省のエリート官僚で、昭和二〇年を迎えた段階で大阪府に勤務。前沖縄県知事泉守紀が出張を装って内地に引きこもってしまったのを受けて、次の沖縄県知事の委託を受ける。推薦したのは沖縄守備軍司令官牛島満。かねてから島田と親交があった。昭和二〇年一月一一日、島田は沖縄県知事になってほしいと、大阪府知事を通して要請された。
島田:私が行きます
府知事:君、家族もあるのだから三日ほどよく考え、相談したうえで返事してもいいんだぞ。断ってもいいんだぞ。
島田:いや、これは、妻子に相談することじゃありません。わたしが決めることです。
妻:朝からなにか良いお話でしたの
島田:沖縄県知事の内命やった。もちろん引き受けて来たわ
妻:なぜ、あなたが?
島田:誰かがどうしても行かなならんとなれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺が断ったら誰かが行かなならん。俺は行くのは嫌やから、誰か行けとは言えへん。これが若いものなら、赤紙一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。俺が断れるからということで断ったら、俺は卑怯者として外も歩けんようになる。
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね。沖縄の人がどれだけ死んでいるか。君も知っているだろう」
「それにしても、僕くらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。これはきっと、末代までの語りぐさになるよ」


《ポーランド孤児を救った日本》
一九一九(大正八)年、第一次世界大戦が終結し、ヴェルサイユ条約によってようやくポーランドは一三〇年ぶりの独立を果たすことになる。ロシアの支配下でシベリアに流刑にされたポーランド人は十数万人。彼らは長い間、肩を寄せあい、寒さと飢餓と伝染病と闘いながら生き抜いてきた。
しかし、一九二〇年春、ロシア革命で誕生したソ連がポーランドとの戦争を始める。そのため、シベリアのポーランド人は、唯一の帰国ルートであったシベリア鉄道が使用できなくなる。ウラジオストックに住むポーランド人の作った「ポーランド救済委員会」は、かわいそうな孤児たちを救おうとヨーロッパやアメリカに救援を求めた。しかし、欧米諸国はこの救援要請をことごとく拒否した。
唯一、ポーランド孤児の救援に乗り出したのが日本だった。
日本赤十字とシベリアに出兵中の陸軍兵士が、機敏な行動を起こした。彼らは極寒のシベリアの地に入っていって、親を亡くした孤児だけでも助けようと悪戦苦闘した。救出した孤児たちをウラジオストックまで連れて行き、そこから船で日本へ送り出した。日本政府が救済を決定した二週間後には、すでに五六名の孤児を東京の宿舎まで送り届けた。日本は、以後三年間で合計七六五名の孤児を救出した。
飢餓と伝染病で衰弱しきっている孤児も多かった。もはや手遅れと思われた腸チフスの少女の看護にあたった二一歳の看護婦松沢フミは、「死を待つほかないなら、せめて自分の胸で」と毎晩少女のベットで添い寝をした。その甲斐あって少女は奇跡的に命を取りとめた。しかし、その様子を見届けた松沢さんは亡くなった。腸チフスに感染していた。
《日本に収容されたポーランド孤児たちは、日本国民朝野をあげて多大の関心と同情を呼んだ。慰問の品を持ち寄る人々、無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち。学生が音楽会の慰問に訪れ、婦人会や慈善協会は子どもたちを慰安会に招待した。寄付金を申し出る人は後を絶たなかった。一九二一年四月六日には貞明皇后も日赤本社病院を訪問され、孤児らと親しく接見された。皇后陛下は三歳の女の子を召されて、その頭をいくども撫でながら、健やかに育つようにと、お言葉を賜られた。(ポーランド在住松本照男氏の証言)》
こうした献身的な看護によって、子どもたちは次第に健康を取り戻していった。そこで回復した子供から順次、八回に分けて祖国ポーランドに送り届けることになった。子どもたちをポーランドに送り届けた日本人船長は、毎晩、一人ひとりの毛布を首までかけては、子どもたちの頭をなでて、熱が出ていないかを確かめた。「その手の暖かさを忘れない」と孤児の一人は回想している。
《日本は我がポーランドとはまったく異なる地球の反対側に存在する国である。しかし、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてこの恩を忘れることはない。我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、神に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までとって、ポーランドの子どもたちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に知っていただきたい。ここにポーランド国民は日本に対し、もっとも深い尊敬、もっとも深い感銘、もっとも温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい。(ポーランド極東委員会副会長ヤクブケヴィッチ氏)》

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
兵庫県神戸市出身。内務省のエリート官僚で、昭和二〇年を迎えた段階で大阪府に勤務。前沖縄県知事泉守紀が出張を装って内地に引きこもってしまったのを受けて、次の沖縄県知事の委託を受ける。推薦したのは沖縄守備軍司令官牛島満。かねてから島田と親交があった。昭和二〇年一月一一日、島田は沖縄県知事になってほしいと、大阪府知事を通して要請された。
島田:私が行きます
府知事:君、家族もあるのだから三日ほどよく考え、相談したうえで返事してもいいんだぞ。断ってもいいんだぞ。
島田:いや、これは、妻子に相談することじゃありません。わたしが決めることです。
妻:朝からなにか良いお話でしたの
島田:沖縄県知事の内命やった。もちろん引き受けて来たわ
妻:なぜ、あなたが?
島田:誰かがどうしても行かなならんとなれば、言われた俺が断るわけにはいかんやないか。俺が断ったら誰かが行かなならん。俺は行くのは嫌やから、誰か行けとは言えへん。これが若いものなら、赤紙一枚で否応なしにどこへでも行かなならんのや。俺が断れるからということで断ったら、俺は卑怯者として外も歩けんようになる。
「君、一県の長官として、僕が生きて帰れると思うかね。沖縄の人がどれだけ死んでいるか。君も知っているだろう」
「それにしても、僕くらい県民の力になれなかった県知事は、後にも先にもいないだろうなあ。これはきっと、末代までの語りぐさになるよ」
『先生、日本ってすごいね』 服部 剛 高木書房 ¥ 1,512 授業づくりJAPANの気概ある日本人が育つ道徳授業 |
《ポーランド孤児を救った日本》
一九一九(大正八)年、第一次世界大戦が終結し、ヴェルサイユ条約によってようやくポーランドは一三〇年ぶりの独立を果たすことになる。ロシアの支配下でシベリアに流刑にされたポーランド人は十数万人。彼らは長い間、肩を寄せあい、寒さと飢餓と伝染病と闘いながら生き抜いてきた。
しかし、一九二〇年春、ロシア革命で誕生したソ連がポーランドとの戦争を始める。そのため、シベリアのポーランド人は、唯一の帰国ルートであったシベリア鉄道が使用できなくなる。ウラジオストックに住むポーランド人の作った「ポーランド救済委員会」は、かわいそうな孤児たちを救おうとヨーロッパやアメリカに救援を求めた。しかし、欧米諸国はこの救援要請をことごとく拒否した。
唯一、ポーランド孤児の救援に乗り出したのが日本だった。
日本赤十字とシベリアに出兵中の陸軍兵士が、機敏な行動を起こした。彼らは極寒のシベリアの地に入っていって、親を亡くした孤児だけでも助けようと悪戦苦闘した。救出した孤児たちをウラジオストックまで連れて行き、そこから船で日本へ送り出した。日本政府が救済を決定した二週間後には、すでに五六名の孤児を東京の宿舎まで送り届けた。日本は、以後三年間で合計七六五名の孤児を救出した。
飢餓と伝染病で衰弱しきっている孤児も多かった。もはや手遅れと思われた腸チフスの少女の看護にあたった二一歳の看護婦松沢フミは、「死を待つほかないなら、せめて自分の胸で」と毎晩少女のベットで添い寝をした。その甲斐あって少女は奇跡的に命を取りとめた。しかし、その様子を見届けた松沢さんは亡くなった。腸チフスに感染していた。
《日本に収容されたポーランド孤児たちは、日本国民朝野をあげて多大の関心と同情を呼んだ。慰問の品を持ち寄る人々、無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち。学生が音楽会の慰問に訪れ、婦人会や慈善協会は子どもたちを慰安会に招待した。寄付金を申し出る人は後を絶たなかった。一九二一年四月六日には貞明皇后も日赤本社病院を訪問され、孤児らと親しく接見された。皇后陛下は三歳の女の子を召されて、その頭をいくども撫でながら、健やかに育つようにと、お言葉を賜られた。(ポーランド在住松本照男氏の証言)》
こうした献身的な看護によって、子どもたちは次第に健康を取り戻していった。そこで回復した子供から順次、八回に分けて祖国ポーランドに送り届けることになった。子どもたちをポーランドに送り届けた日本人船長は、毎晩、一人ひとりの毛布を首までかけては、子どもたちの頭をなでて、熱が出ていないかを確かめた。「その手の暖かさを忘れない」と孤児の一人は回想している。
《日本は我がポーランドとはまったく異なる地球の反対側に存在する国である。しかし、我が不運なるポーランドの児童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表してくれた以上、我々ポーランド人は肝に銘じてこの恩を忘れることはない。我々の児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、神に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までとって、ポーランドの子どもたちに与えようとした。こんなことは一度や二度ではない。しばしばあった。ポーランド国民もまた高尚な国民であるがゆえに、我々はいつまでも恩を忘れない国民であることを日本人に知っていただきたい。ここにポーランド国民は日本に対し、もっとも深い尊敬、もっとも深い感銘、もっとも温かき友情、愛情を持っていることをお伝えしたい。(ポーランド極東委員会副会長ヤクブケヴィッチ氏)》


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