『世界を感動させた日本精神』 黄文雄
この本では、ずいぶん、石田梅岩の心学を強調してますね。
商人は、本来、“しょうじん”であり、周に滅ぼされた“商”の遺民が生業たる農を行うための土地を与えられず、物品を移転することによって利益をあげる仕事に従事せざるをえなかったことから、これを仕事とするものを商人と呼ぶようになったという説がある。いずれにせよ、まともな人間のやる仕事ではないという認識は、古くからあったようだ。
しかし、梅岩の定義する、日本の商人違う。「商人は天下の物品を繰り回して人々の難儀を救う」者たちであるという。元来、士農工商の職分は天命であり、天職であるから、そこに上下の関係も尊卑の関係もないという。
もともと、勤勉と正直は日本人の伝統的倫理であり、その倫理観の前に職業の違いは、本質的には大きな意味を持っているわけではない。
マックス・ウェーバーはプロテスタントの倫理観、つまり節約・禁欲・勤勉が資本主義の精神に繋がったと分析する。カトリックは、個々の功徳の積み重ねが救いにつながると考えるカトリックに対し、カトリックは救いはただ神意のみによって決まるとした。仏教の因果応報の思想は、カトリックに近い。
黄文雄さんは、石田梅岩の言う商人道こそ、プロテスタントの考えに近いと言うが、その前に、“日本人”と呼ばれるものの基本的素質として、“勤勉と正直”がある。
では、その“勤勉と正直”は、どのようにして身についたものか。この本は、それについてはあまり触れていない。私は、その背景に“縄文”という、とてつもなく長い時代があったんだろうと思っている。“儚さ”や“もののあわれ”への思い入れの強さは、気の遠くなるような長い期間、揺れる地面と向かい合ってきた結果であろうと考えている。
おそらく、基本的に求めるものはそこにあるんだろうと思うんだけど、黄文雄さんのアプローチは、より困難な道に、あえて挑んでいる。第一章で語られている「「水」と「森」が生んだ日本文明」というのは、まさに“縄文”を意識したものだと思う。
しかし、この本では、日本の歴史的思想家たちの思考の中から、“勤勉と正直”につながるエッセンスを抽出するという、途方もなく困難な仕事に、黄文雄さんはあえて挑んできたようだ。それだけ彼にとって、日本人の精神、最終章で言うところの“日本的霊性”というのが、いい意味で興味深く、そして世界の中でもあまりにも特別で、今後の世界にとって無くてはならない者と考えられていたからだろう。
その努力に、敬意を表します。
ただ、ここのところの、黄文雄さんの本は、やはり以前とは違う。少し前までの日本は、“戦後民主主義”が幅を利かしていて、ちょっと見、見栄えはいいようであっても、戦勝国の歴史の改変の上に構築された楼閣であったから、過去と現在が分断され、日本人の民族性と書き上げられた歴史はつながりを実感することができなかった。そんな時代にあって、黄文雄さんを含む、ほんの一握りの人たちが、“本当のこと”を私たちに教えてくれていた。それらは、とてもわかり易いことが共通した特徴だった。
それらの努力のお陰で、日本でも、大分、“戦後民主主義”の影響力は弱まった。まだまだ教科書等において、主力を構成していることは間違いないのだが・・・。それでも、流れは変わった。おそらく、黄文雄さんもそれを実感して、次の段階の仕事に入ったんじゃないだろうか。歴史の真実を訴える段階から、思想的な裏付けの段階へ。
でも、失礼ながら、私にとっては、ちょっと残念。黄文雄さんの気持ちの高ぶりは感じるんだけど、それほどには伝わってこない。あるいは、伝わってくるものに、かつて程の興味が持てない。もちろん、もとに戻してもらいたいなんてわけじゃない。この新しい挑戦を、もっと面白いものに練り上げて欲しいってところだな。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
商人は、本来、“しょうじん”であり、周に滅ぼされた“商”の遺民が生業たる農を行うための土地を与えられず、物品を移転することによって利益をあげる仕事に従事せざるをえなかったことから、これを仕事とするものを商人と呼ぶようになったという説がある。いずれにせよ、まともな人間のやる仕事ではないという認識は、古くからあったようだ。
しかし、梅岩の定義する、日本の商人違う。「商人は天下の物品を繰り回して人々の難儀を救う」者たちであるという。元来、士農工商の職分は天命であり、天職であるから、そこに上下の関係も尊卑の関係もないという。
もともと、勤勉と正直は日本人の伝統的倫理であり、その倫理観の前に職業の違いは、本質的には大きな意味を持っているわけではない。
マックス・ウェーバーはプロテスタントの倫理観、つまり節約・禁欲・勤勉が資本主義の精神に繋がったと分析する。カトリックは、個々の功徳の積み重ねが救いにつながると考えるカトリックに対し、カトリックは救いはただ神意のみによって決まるとした。仏教の因果応報の思想は、カトリックに近い。
黄文雄さんは、石田梅岩の言う商人道こそ、プロテスタントの考えに近いと言うが、その前に、“日本人”と呼ばれるものの基本的素質として、“勤勉と正直”がある。
『世界を感動させた日本精神』 黄文雄 ビジネス社 ¥ 1,620 日本が好かれ、中韓が嫌われるには理由がある 台湾人だからわかる 本当は幸福な日本人 |
では、その“勤勉と正直”は、どのようにして身についたものか。この本は、それについてはあまり触れていない。私は、その背景に“縄文”という、とてつもなく長い時代があったんだろうと思っている。“儚さ”や“もののあわれ”への思い入れの強さは、気の遠くなるような長い期間、揺れる地面と向かい合ってきた結果であろうと考えている。
おそらく、基本的に求めるものはそこにあるんだろうと思うんだけど、黄文雄さんのアプローチは、より困難な道に、あえて挑んでいる。第一章で語られている「「水」と「森」が生んだ日本文明」というのは、まさに“縄文”を意識したものだと思う。
しかし、この本では、日本の歴史的思想家たちの思考の中から、“勤勉と正直”につながるエッセンスを抽出するという、途方もなく困難な仕事に、黄文雄さんはあえて挑んできたようだ。それだけ彼にとって、日本人の精神、最終章で言うところの“日本的霊性”というのが、いい意味で興味深く、そして世界の中でもあまりにも特別で、今後の世界にとって無くてはならない者と考えられていたからだろう。
その努力に、敬意を表します。
ただ、ここのところの、黄文雄さんの本は、やはり以前とは違う。少し前までの日本は、“戦後民主主義”が幅を利かしていて、ちょっと見、見栄えはいいようであっても、戦勝国の歴史の改変の上に構築された楼閣であったから、過去と現在が分断され、日本人の民族性と書き上げられた歴史はつながりを実感することができなかった。そんな時代にあって、黄文雄さんを含む、ほんの一握りの人たちが、“本当のこと”を私たちに教えてくれていた。それらは、とてもわかり易いことが共通した特徴だった。
それらの努力のお陰で、日本でも、大分、“戦後民主主義”の影響力は弱まった。まだまだ教科書等において、主力を構成していることは間違いないのだが・・・。それでも、流れは変わった。おそらく、黄文雄さんもそれを実感して、次の段階の仕事に入ったんじゃないだろうか。歴史の真実を訴える段階から、思想的な裏付けの段階へ。
でも、失礼ながら、私にとっては、ちょっと残念。黄文雄さんの気持ちの高ぶりは感じるんだけど、それほどには伝わってこない。あるいは、伝わってくるものに、かつて程の興味が持てない。もちろん、もとに戻してもらいたいなんてわけじゃない。この新しい挑戦を、もっと面白いものに練り上げて欲しいってところだな。


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