『さすらいの仏教語』 玄侑宗久
じつは、この本はずいぶん前に読んでいる。出版されたのが2014年1月。おそらくそれから間もない時期に読んでいる。もともと、“言葉”には興味があるし、この本も面白く読んだ記憶がある。それにもかかわらず、ブログにこの本の記事を書いた形跡がない。なんで書かなかったんだろう。特別なことは、なにも思い当たることはない。・・・まっ、たまたまだろう。

これ、『さすらいの仏教語』の、-大活字シリーズー版です。いやー、偶然、最寄りの図書館に入っているのを見つけて、なつかしさに手に取りペラペラとめくって見るうちに読み始めてしまい、貸し出ししてもらいました。家に帰って読み始めると、読みやすいこと、読みやすいこと。・・・何がって、字がでかいからだよ。読んでいても、楽なんだよね。
内容が面白いこともあって、ほとんどストレスなく、面白く読むことができた。
さて、その内容だけど、長い時間の間にものごとは変わる。それは仏教の教えそのものでもある。時には、まったく違うものに変化する場合もある。まかり間違って、正反対の意味を持つようになるものもある。そうなると、もとはそのものの名を意味した言葉も変質していくしかなくなる。
言葉が、本来の意味していた本質を失って変質していく。変質しながらも、言葉は常に何らかの意味を持ったのだ。著者は、それを言葉の“さすらい”と呼ぶ。その間に、多くの言葉が失われたのかもしれない。でも生き残った者も少ないくない。それらは意味する内容を微妙に変化させ、荒波にもまれて変質し、分化したりしながら別の意味や思想と合流し、たくましく生き延びてきたのである。
今でもそうだが、日本人には言葉を逆さにしてしまうことがよくある。六本木がギロッポン、寿司がシースーなんてのは“業界用語”なんて呼ばれるけど、“業界”ってなんだ?
もう、逆さにされた言葉の方が、今では当たり前に使われていることも少なくない、「ゲンを担ぐ」というが、その“ゲン”はもとは“ギエン”、逆さにすれば縁起になって、「縁起を担ぐ」がもともと。そういえば、“新しい”は“あたらしい”と読むが、もとは“あらたしい”が正しいらしい。“新た”な気持ちは、“あらた”と読むもんね。
「だらしない」という言葉がある。ないのは“だらし”であるが、これが逆さにされている。逆さにされる前は“しだら”。“しだら”は、“だらし”に等しいのだ。だから、「だらしない」と「ふしだら」は共通性を持つ。
“しだら”の本来の意味だが、インドではネックレスなどを貫く糸、シナでは織物の経糸をあらわし、漢字をあてると「修多羅」。本来の意味するところは《生活上の筋》、《規則正しさ》だそうだ。
「修多羅」って、もしかしたら、「スートラ」か? 「スートラ」といえば、「カーマ・スートラ」。「カーマ・スートラ」はインドの性愛論書。つまり、“正しい性愛”について書かれた本。正しい律動を感じる。
《規則正しさ》はリズムに乗って、「スーダララッタ、ホイホイっと」
そんなことはともかく、私の結論。・・・すべての本が、ー大活字本ーになるべきだ。・・・歳とったんだなあ、私も・・・。
歳だから、“三千代”なんていう名前出されると、新珠三千代を思い出してしまう。考えたこともなかったけど、その“三千代”というのも仏教語だそうだ。“三千大千世界”の“三千”なんだそうだ。“三千大千世界”とは、頭に思い浮かべることもできないくらいに大きな世界のこと。大きく深い愛で何でも受け入れてくれる女。私の新珠美千代像にぴったりだ。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
特別なことはなく、ブログにも記事を書かなかったこの本を、どうしてまた、たまたま取り上げることになったのか。じつはこっちには理由がある。その理由というのが、右の本。 |
*現在、本の写真が反映されてない。大丈夫かな?
これ、『さすらいの仏教語』の、-大活字シリーズー版です。いやー、偶然、最寄りの図書館に入っているのを見つけて、なつかしさに手に取りペラペラとめくって見るうちに読み始めてしまい、貸し出ししてもらいました。家に帰って読み始めると、読みやすいこと、読みやすいこと。・・・何がって、字がでかいからだよ。読んでいても、楽なんだよね。
内容が面白いこともあって、ほとんどストレスなく、面白く読むことができた。
さて、その内容だけど、長い時間の間にものごとは変わる。それは仏教の教えそのものでもある。時には、まったく違うものに変化する場合もある。まかり間違って、正反対の意味を持つようになるものもある。そうなると、もとはそのものの名を意味した言葉も変質していくしかなくなる。
言葉が、本来の意味していた本質を失って変質していく。変質しながらも、言葉は常に何らかの意味を持ったのだ。著者は、それを言葉の“さすらい”と呼ぶ。その間に、多くの言葉が失われたのかもしれない。でも生き残った者も少ないくない。それらは意味する内容を微妙に変化させ、荒波にもまれて変質し、分化したりしながら別の意味や思想と合流し、たくましく生き延びてきたのである。
『さすらいの仏教語』 玄侑宗久 中央公論新社 ¥ 821 諸行無常、物事は変化する。内実が変わったのに言葉が変わらないと、言葉そのものの意味が変質する |
今でもそうだが、日本人には言葉を逆さにしてしまうことがよくある。六本木がギロッポン、寿司がシースーなんてのは“業界用語”なんて呼ばれるけど、“業界”ってなんだ?
もう、逆さにされた言葉の方が、今では当たり前に使われていることも少なくない、「ゲンを担ぐ」というが、その“ゲン”はもとは“ギエン”、逆さにすれば縁起になって、「縁起を担ぐ」がもともと。そういえば、“新しい”は“あたらしい”と読むが、もとは“あらたしい”が正しいらしい。“新た”な気持ちは、“あらた”と読むもんね。
「だらしない」という言葉がある。ないのは“だらし”であるが、これが逆さにされている。逆さにされる前は“しだら”。“しだら”は、“だらし”に等しいのだ。だから、「だらしない」と「ふしだら」は共通性を持つ。
“しだら”の本来の意味だが、インドではネックレスなどを貫く糸、シナでは織物の経糸をあらわし、漢字をあてると「修多羅」。本来の意味するところは《生活上の筋》、《規則正しさ》だそうだ。
「修多羅」って、もしかしたら、「スートラ」か? 「スートラ」といえば、「カーマ・スートラ」。「カーマ・スートラ」はインドの性愛論書。つまり、“正しい性愛”について書かれた本。正しい律動を感じる。
《規則正しさ》はリズムに乗って、「スーダララッタ、ホイホイっと」
そんなことはともかく、私の結論。・・・すべての本が、ー大活字本ーになるべきだ。・・・歳とったんだなあ、私も・・・。
歳だから、“三千代”なんていう名前出されると、新珠三千代を思い出してしまう。考えたこともなかったけど、その“三千代”というのも仏教語だそうだ。“三千大千世界”の“三千”なんだそうだ。“三千大千世界”とは、頭に思い浮かべることもできないくらいに大きな世界のこと。大きく深い愛で何でも受け入れてくれる女。私の新珠美千代像にぴったりだ。


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