『戦争を始めるのは誰か』 渡辺惣樹
《ドーズ案によるドイツの復興》
対ドイツ投資の信頼性は高まり、アメリカの多くの企業が次々とドイツに参入した。ドイツの景気は、ドーズ案によって盛り返した。政治的にも抵抗路線から協調路線に切り替え再建の道を進み始めた。
《ドイツによるズデーテン地方の併合》 ミュンヘン協定を戦後の史書は宥和政策の失敗だと説く。チェンバレンがこの時点でヒトラーとの戦いを決意していれば、その後のヒトラーの増長はなかったと言う。しかし、これは当時の世相を斟酌しない意見である。 |
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1. 英国民はチェコスロバキアの領土をめぐって参戦することに同意しない
2. ヒトラーの要求の多くが正当なものである
3. チェンバレンは、ドイツがロシア共産主義の防波堤になるためには、それなりの強国になる必要があると考えた
4. 英国陸軍は戦う準備ができていなかった
5. ヒトラーは、ドイツ経済の復興など、多くの人々をいい意味で驚嘆させていた
6. チェンバレンは、先の大戦の悲惨さが身に染みていた
戦争を回避して帰国したチェンバレンを、国民は喝采で迎えた。
この状況で、チャーチルはチェンバレンを非難して、「チェコスロバキアは捨てられ、バラバラにされた。暗闇の世界に突き落とされた」と演説した。チャーチルはズデーテン地方を防衛するためにスターリンとの同盟構想を唱えた。赤軍がチェコスロバキアの防衛に向かえば、チェコスロバキアまでの東欧はスターリンの支配下にはいる可能性が高かった。チャーチルはソ連の脅威についてあまりにも鈍感であった。彼がそれを肌身に染みるのは1944年になってからである。
『戦争を始めるのは誰か』 渡辺惣樹 文春新書 ¥ 1,188 必要のない戦争だった。チャーチルとルーズベルトがいなければ、起こらない戦争だった |
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《ウィリアム・ブリット駐仏アメリカ大使》
1939年1月14日、一時帰国していた彼は、FDRの指示を受けてポーランド駐米大使のイェジ・ポトツキと会談した。ドイツとの戦争という事態になれば、アメリカは英仏の側に立って能動的に干渉する準備ができていると語った。
1939年2月、赴任地のバリで、ポーランド駐仏大使ユリウシュ・ウカシェヴィッチに対して、「戦いが始まれば、アメリカはすぐにでも英仏の側に立って参戦する」と語った。
1939年3月15日、FDRは英国ハリファックス外相に対して、イギリスがその対独外交方針を変更しなければ、米国世論は反英国に傾くと脅した。FDRはドイツから英国大使を引き上げ、外交関係を断つことまで要求した。ハリファックス外相は、それは控えた。
この辺りから、チェンバレンの対独外交方針が変化する。
1939年3月31日、ポーランド独立保障確約。チェンバレンによるポーランド独立保障にロイド・ジョージはこう語る。「もしわが軍の将軍たちがこれを承認していたとすれば、彼らはすべて気が違っている」イギリスがポーランドの独立を保証するということは、イギリスとドイツが戦争するかどうかの判断を、ポーランドの政治家の決断に任せたということである。
チェンバレンは、1938年の段階では、イギリスはヨーロッパの戦いに関与しないと考えていた。しかし、ウィリアム・ブリット駐仏アメリカ大使が、1939年の夏、ポーランド問題ではドイツを絶対に阻止しなければならないと主張した。


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