『呪われた明治維新』 星亮一
錦江湾で溺れかけたことがある。いい気になって浮かんでたら潮に流されて、どうにも困っていたら、小さな漁船のお兄さんに救われた。何度も何度も繰り返し頭を下げて、お礼したいと言ったら、「お礼なんていらないから一緒に飲もう」ということになって、行きつけの店を教えてもらった。いったん宿に戻って身支度をし、言われた時間に店に入ると、すでに盛り上がっていた。大した金額のお礼にはならなかったけど、焼酎を一本入れさせてもらって、とにかく楽しく飲んだ。
ひとしきり盛り上がった後、「どこから来た」という問いかけに、「会津です」と答えた。
小単元でいえば、長くて2ページ。コラムにしたって短めの文章を、章ごとのテーマに合わせてつなげて行った感じ。“コラム”なんて言ってしまうと軽すぎるかな。なんせ、いくら短くたって、そこにはいちいち会津戦争の恨みがしみ込んでいる。だけど、これまでの“会津もの”に比べて、格段に読みやすい事ともたしか。
福島出身者であろうとなかろうと、山口県出身者であろうとなかろうと、鹿児島だろうが、高知だろうが、どこの出身であっても関係なく、“会津”の一言で、すべてをおもんばかることができる人が、どれだけいるだろうか。この本は、その歴史の味方を問題にしている。
会津を背景に持つということは、それは一つの史観を持つことにもつながる。たとえば、この間も、少し触っておいたが、会津を背景に持つことによって、靖国に対する捉え方だって、ものすごく違うものになる。つまり、大東亜戦争の捉え方もにも影響を与える重要な視点を持つことにつながることになる。
シナや韓国が、《日本人にやられた》と言っていることの多くはただのプロパガンダで、根拠もないことばかりである。だけど、会津では、女を犯し、子どもや無垢の民人を手にかけ、多くを奪い去った。戦いが終わった後でも、なにかを守るために命を懸けた相手に敬意を払うこともなく、侮蔑をつくした。
日本軍がシナや朝鮮で本当はやってもいないことを、長州は会津に対してやったのだ。
斗南藩へのところ替えは、それこそ藩を挙げての島流しに他ならない。そんなのありか。いや、もっとひどいか。会津の武家の娘が女郎になって客を取り、家族の飢えを助けたなんてね。『会津の女ごは尻までしゃっこい』なんて言われるんだそうだ。あわれだなぁ。
そこまで貶めた長州が悪い。
これは、『明治維新という過ち』の原田伊織さんの弁だそうだ。実際、明治維新再検討の話は全国で取り上げられているんだそうだ。そのとき、なにが行われたのか。女たちがどんな目に合わされたかも含めてね。
山県有朋を中心とする長州勢が地道を上げたように、会津が浮かび上がる機会をことごとくつぶし、歴史の襞の中に葬り去ろうとするやり方は、“戦後”150年にして通用しなくなりつつあるようだ。
その上で、あえてつけ加えるけど、それでも、やはり会津には、“新たな時代”を開くことはできなかった。朱子学の呪縛は会津を去らなかった。朱子学に囚われていては、日本の将来は見えてこなかった。
「会津です。会津から来ました」と答えた瞬間、それまでの店の空気が一瞬で変わった。薩摩は心に傷を抱えているのがよくわかった。・・・ちなみに、私、会津とはなんの関係ありません。

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ひとしきり盛り上がった後、「どこから来た」という問いかけに、「会津です」と答えた。
小単元でいえば、長くて2ページ。コラムにしたって短めの文章を、章ごとのテーマに合わせてつなげて行った感じ。“コラム”なんて言ってしまうと軽すぎるかな。なんせ、いくら短くたって、そこにはいちいち会津戦争の恨みがしみ込んでいる。だけど、これまでの“会津もの”に比べて、格段に読みやすい事ともたしか。
福島出身者であろうとなかろうと、山口県出身者であろうとなかろうと、鹿児島だろうが、高知だろうが、どこの出身であっても関係なく、“会津”の一言で、すべてをおもんばかることができる人が、どれだけいるだろうか。この本は、その歴史の味方を問題にしている。
会津を背景に持つということは、それは一つの史観を持つことにもつながる。たとえば、この間も、少し触っておいたが、会津を背景に持つことによって、靖国に対する捉え方だって、ものすごく違うものになる。つまり、大東亜戦争の捉え方もにも影響を与える重要な視点を持つことにつながることになる。
『呪われた明治維新』 星亮一 さくら舎 ¥ 1,620 長州はいったい、会津の地でどんな蛮行を働いたのか。なぜ会津は長州を許せないのか。 |
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シナや韓国が、《日本人にやられた》と言っていることの多くはただのプロパガンダで、根拠もないことばかりである。だけど、会津では、女を犯し、子どもや無垢の民人を手にかけ、多くを奪い去った。戦いが終わった後でも、なにかを守るために命を懸けた相手に敬意を払うこともなく、侮蔑をつくした。
日本軍がシナや朝鮮で本当はやってもいないことを、長州は会津に対してやったのだ。
斗南藩へのところ替えは、それこそ藩を挙げての島流しに他ならない。そんなのありか。いや、もっとひどいか。会津の武家の娘が女郎になって客を取り、家族の飢えを助けたなんてね。『会津の女ごは尻までしゃっこい』なんて言われるんだそうだ。あわれだなぁ。
そこまで貶めた長州が悪い。
私怨をはらすための全く大義も名分もない戦を仕掛け、会津城下において我が国の歴史に消すことのできない残虐非道な行為の傷をつけた薩摩、長州、そして土佐。指揮を執った長州山県有朋、薩摩伊地知正治、土佐板垣退助の戦争犯罪人としての始末は、まだ済んでない。言うまでもなく、このことに関する岩倉・大久保の戦争犯罪も無視することはできないのである。 本書p224 |
山県有朋を中心とする長州勢が地道を上げたように、会津が浮かび上がる機会をことごとくつぶし、歴史の襞の中に葬り去ろうとするやり方は、“戦後”150年にして通用しなくなりつつあるようだ。
その上で、あえてつけ加えるけど、それでも、やはり会津には、“新たな時代”を開くことはできなかった。朱子学の呪縛は会津を去らなかった。朱子学に囚われていては、日本の将来は見えてこなかった。
「会津です。会津から来ました」と答えた瞬間、それまでの店の空気が一瞬で変わった。薩摩は心に傷を抱えているのがよくわかった。・・・ちなみに、私、会津とはなんの関係ありません。


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