『本当の中国の話をしよう』 余華
もともと、2012年の本で、その時読んで、ブログにもしつこく書いた。
最近、この本が文庫で出ているのを見つけた。とても影響を受けた本なので、かつまた、習近平がこの秋に行われる共産党大会で、毛沢東の高みに挑もうとしている状況において、この本を見直す必要がある。文庫版が、このタイミングで出版されたのも、おそらくそのへんに関係しているんだろう。
著者の余華は支那の作家。1960年生まれといから、私と同じ歳。私も支那に生まれていれば、同様の体験をした可能性があるということか。
6才から17才までが文化大革命に重なり、改革開放後、29歳で天安門事件。そしてその後のいびつな経済成長。作家活動の中で精神の危機もあったようだが、考えてみればそれも当然のことと思える。この本は、そんな支那近代史とともに生きてきた著者が、自らと、自らの生きた支那を振り返り、支那社会の本質をえぐったた随筆。
次の文章には背筋に電流が走りました。同時に、今の支那社会の激変の一端がかいま見えたような思いがしました。
文化大革命が完全に終わって改革開放が始まったことは、支那がまったく正反対の方向へ進み始めたことを意味している。これまでそう信じきっていた。そのように見えて、“革命の熱狂が金儲けの熱狂に置き替えられた”のであり、本質は変わらないという著者の考えは、大変新鮮である。たしかに現在の“金儲けの熱狂”のいびつさは、文革のいびつさを引きずっていないか。そういえば、二つのイメージはピッタリ重なるように思える。
この本の中に紹介されている“金儲けの熱狂”が生み出すいびつさは、あとで、別記事で紹介したいと思う。たしかにそこに見られるいびつさ、社会の歪みは、文化大革命の時に表現された生徒が先生を、年少者が年長者を、子が親を、愚者が賢者を引きずり下ろして袋叩きにしたあの頃に、見事なまでに重なるように思える。
周恩来が死に、毛沢東が死に、四人組が引きずり降ろされて文革は終わったはずだった。でもまだ、あの頃の熱狂の本質が今も引きずられているなら、支那は一体どこまで走り続けるのだろう。その先にもう、道が続いているようには思えないのだが・・・。
文化大革命の中、人びとはどう日常生活を送っていたのでしょう。人々は壁新聞を恐れた。反革命の告発は、この壁新聞で行われていたという。
これは『ほんとうの中国の話をしよう』に書かれている、著者余華氏の体験である。
いったい、このような状況で、本好きたちは、どうやって本を読んでいたのでしょうか。
余華の『ほんとうの中国の話をしよう』に、文革時代、著者たち読書好きが、必死にその読書欲を満足させた様子が書かれています。
後に少年は、完全な形のこの小説に巡りあう。しかし、彼にはわずかな時間しか与えられなかった。友人が人から借りたその本は、翌日が返却の約束日。彼と友人は、世を徹して一文字一文字をノートに書き写す。写本。彼らは、こうして“本”を読んだ。
これが文化大革命という革命。あの郭沫若でさえ、それまでの自分の文学活動を「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と全否定しなければならなかったそうだ。
これは、文革の“文化弾圧”に対する川端康成、安部公房、石川淳、三島由紀夫連名の抗議声明である。

余華氏の『ほんとうの中国の話をしよう』に出てくる、現在の支那の貧困を語る物語である。この本の中には、他にも現在の支那の、そのままの姿が紹介されている。ぜひ読んでいただきたい本です。
文庫で出たみたいなので、まだだったらぜひ一度。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
最近、この本が文庫で出ているのを見つけた。とても影響を受けた本なので、かつまた、習近平がこの秋に行われる共産党大会で、毛沢東の高みに挑もうとしている状況において、この本を見直す必要がある。文庫版が、このタイミングで出版されたのも、おそらくそのへんに関係しているんだろう。
著者の余華は支那の作家。1960年生まれといから、私と同じ歳。私も支那に生まれていれば、同様の体験をした可能性があるということか。
6才から17才までが文化大革命に重なり、改革開放後、29歳で天安門事件。そしてその後のいびつな経済成長。作家活動の中で精神の危機もあったようだが、考えてみればそれも当然のことと思える。この本は、そんな支那近代史とともに生きてきた著者が、自らと、自らの生きた支那を振り返り、支那社会の本質をえぐったた随筆。
次の文章には背筋に電流が走りました。同時に、今の支那社会の激変の一端がかいま見えたような思いがしました。
なぜ私は、今の中国を語るとき、いつも文化大革命にさかのぼるのだろう?それは二つの時代が密接につながっているからだ。社会形態はまったく違うが、精神の中身は驚くほど似ている。たとえば、国民総動員で文化大革命を行った我々は、またも国民総動員で経済発展を進めているではないか。 ここで強調したいのは、民間経済の急激な発展が文革初期に突如登場した無数の造反司令部に類似しているということだ。一九八〇年代の中国人は、革命の熱狂を金儲けの熱狂に置き替え、またたく間に無数の民間会社を登場させた。(中略)数えきれないほどの民間会社は一方ですぐ消滅するが、また一方ですぐ登場する。革命と同じで、先人の屍を乗り越え、勢いよく前進を続けた。唐の白居易の詩句を引用するなら、「野火焼けども尽きず、春風吹いてまた生ず」である。中国経済の奇跡は、このようにして引き起こされた。 |
文化大革命が完全に終わって改革開放が始まったことは、支那がまったく正反対の方向へ進み始めたことを意味している。これまでそう信じきっていた。そのように見えて、“革命の熱狂が金儲けの熱狂に置き替えられた”のであり、本質は変わらないという著者の考えは、大変新鮮である。たしかに現在の“金儲けの熱狂”のいびつさは、文革のいびつさを引きずっていないか。そういえば、二つのイメージはピッタリ重なるように思える。
この本の中に紹介されている“金儲けの熱狂”が生み出すいびつさは、あとで、別記事で紹介したいと思う。たしかにそこに見られるいびつさ、社会の歪みは、文化大革命の時に表現された生徒が先生を、年少者が年長者を、子が親を、愚者が賢者を引きずり下ろして袋叩きにしたあの頃に、見事なまでに重なるように思える。
周恩来が死に、毛沢東が死に、四人組が引きずり降ろされて文革は終わったはずだった。でもまだ、あの頃の熱狂の本質が今も引きずられているなら、支那は一体どこまで走り続けるのだろう。その先にもう、道が続いているようには思えないのだが・・・。
文化大革命の中、人びとはどう日常生活を送っていたのでしょう。人々は壁新聞を恐れた。反革命の告発は、この壁新聞で行われていたという。
私は学校の友達の父親が何人か打倒されるのを目撃した。「資本主義の道を歩む実権派」というのが罪名で、造反派に殴られて顔が腫れていた。胸の前には大きな札を下げ、頭には紙で作った三角帽子をかぶっている。彼らは一日じゅう箒を手にして、おどおどしながら通りを清掃していた。通行人はいつでも彼らを蹴飛ばしたり、彼らの顔に唾を吐いたりしてよかった。彼らの子供にも当然類が及び、たえず学校の友達から侮辱と蔑視を受けていた。 |
これは『ほんとうの中国の話をしよう』に書かれている、著者余華氏の体験である。
いったい、このような状況で、本好きたちは、どうやって本を読んでいたのでしょうか。
余華の『ほんとうの中国の話をしよう』に、文革時代、著者たち読書好きが、必死にその読書欲を満足させた様子が書かれています。
私の家には当時、両親が仕事で使う十数冊の医学書を除くと、四巻本の『毛沢東選集』と赤い宝の本と呼ばれる『毛沢東語録』しかなかった。赤い宝の本は、『毛沢東選集』から抽出された言葉を集めたものである。私は元気なく、それらの本のページをめくった。読書欲という化学反応が起こることを期待したが、いくらページをめくっても、まったく読む気になれない。 (中略) 私は赤い宝の本を選択せず、『毛沢東選集』の第一巻を手に取り、じっくり読み始めた。そして、読書の新大陸を発見した。『毛沢東選集』の注釈に引きこまれたのだ。それ以降、私は片時も休むことなく『毛沢東選集』を読んだ。 (中略) しかし、私は毛沢東思想を学んでいたわけではない。読んでいたのは『毛沢東選集』の注釈だ。歴史的事件や人物に関するこれらの注釈は、町の図書館の小説よりもずっと面白かった。注釈の中に感情はないが、ストーリーがあり、人物もいた。 (中略) 2つ目の読書体験は中学時代で、私は毒草とされた一部の小説を読み始めた。これらの焼却の運命を免れた生き残りの文学は、ひそかに我々の間で流通していた。おそらく、本当に文学を熱愛する人たちが慎重に保管し、その後こっそり回し読みされるようになったのだろう。どの本も千人以上の人の手を経て、私のところに回ってきた時にはもうボロボロだった。最初と最後の十数ページが欠けている。私が当時読んだ毒草の小説は、一冊も完全な形を保っていなかった。書名も作者名もわからない。ストーリーの始まりと結末も、わからなかった。 ストーリーの始まりがわからないのはまだ我慢できるが、結末がわからないのは大変つらかった。いつも頭と尻尾のない小説を読んで、私は熱い鍋の上のアリのようにのた打ち回った。人にこの物語の結末を尋ねたが、誰も知らない。彼らが読んだのも、頭と尻尾のない小説だった。(中略) 結末のない物語が私を苦しめても、助けてくれる人はいない。私は自分で物語の結末を考えることにした。(中略)毎晩、明かりを消してベッドに入ってから、私は暗闇の中でまばたきして想像の世界に浸った。あれらの物語の結末を考えると同時に、自分の創作に感動して熱い涙を流した。 |
後に少年は、完全な形のこの小説に巡りあう。しかし、彼にはわずかな時間しか与えられなかった。友人が人から借りたその本は、翌日が返却の約束日。彼と友人は、世を徹して一文字一文字をノートに書き写す。写本。彼らは、こうして“本”を読んだ。
これが文化大革命という革命。あの郭沫若でさえ、それまでの自分の文学活動を「今日の基準からいえば、私が以前書いたものにはいささかの価値もない。すべて焼き尽くすべきである」と全否定しなければならなかったそうだ。
われわれは、左右いずれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、中国の学問芸術が(その古典研究も含めて)本来の自律性を快復するためのあらゆる努力に対して、支持を表明するものである。・・・学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法jに一致して反対する。 |
河出文庫 ¥ 994 体験的中国論。毛沢東、文化大革命、天安門事件から、魯迅、格差、コピー品まで。 |
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失業生活を長く続けている夫婦が幼い子供を連れて、帰宅途中に露天の果物屋の前を通りかかった。 息子は多くの果物のうち値段の安いバナナに目をつけ、両親に一本だけでいいから買ってくれと頼んだ。 しかし貧しい両親は有り金を全部はたいても、バナナ一本買うことができなかった。 子どもを強引に露店の前から連れ去るしかない。 子供は大声で泣いた。 もう長いことバナナを食べていないので、どんな味だったかも忘れかけていた。 両親に家まで連れ戻されても、子供の悲しげな泣き声は止まらなかった。 泣き止まないことに腹を立て、父親は子どもを殴打した。 母親が駆け寄って父親を押しのけ、夫婦喧嘩が始まった。 次第に言い争いが激しくなり、子どもは「バナナ」と泣き叫んだ。 突然、父親は悲哀を感じ、悲哀はすぐに憎悪に変わった。 父親は自分を憎悪し、自分の無能さを憎んだ。 仕事も収入もなく、バナナを食べたいという息子の願いをかなえることすらできないのだ。 憎悪の気持ちが彼をベランダに導いた。 彼は振り返ることもなく身を躍らせ、マンションの十数階から飛び降りた。 妻は大声を上げてドアから飛び出し、階段を駆け下りた。 夫はコンクリートの上の血だまりの中に横たわっていた。 妻はひざまづいて、夫を抱き起こそうとした。 夫の名前を呼んだが、なんの反応もない。 しばらくして、妻は夫の命が尽きたことを知った。 突然、冷静さを取り戻し、もう泣き叫ぶこともなく、夫をそのままにして立ち上がり、マンションの方へ引き返した。 家に戻ると、幼い息子は何が起こったのかわからず、なおもバナナを欲しがって泣いていた。 母親は息子が泣きながら見ている前で、一本の縄を探し出し、踏み台を部屋の中央に運んだ。 踏み台の上に立つと、落ち着いて縄を室内灯の釣り鉤に結びつけ、縄の輪の中に自分の首を入れた。 息子は泣きながら、当惑した様子でこちらを見ている。 母親は縄から首を出し、踏み台から降りて、息子のところへ行った。 そして息子と息子が座っている椅子の向きを逆にして、背中を向けさせた。 その後、母親はまた引き返し、踏み台に上がり、あらためて縄を首にかけた。 泣いている息子の後ろ姿を悲しそうに見つめながら、踏み台を蹴り、首吊り自殺を遂げたのだ。 両親が亡くなったあとも、子供は泣き続けた。 子供はもはや、バナナが欲しくて泣いているのではなかった。 |
文庫で出たみたいなので、まだだったらぜひ一度。


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