『仏教って何ですか』 池上彰
奥多摩の高水山に登ってきた。その登り口にあった高源寺というお寺が右の写真。別になんてことない、普通の山のお寺のだな。 | ![]() |
それが、お寺の境内に入ったら、その奥の方に、何やらお宮のようなものがあるみたいなので行ってみると、なんと妙見宮。さらにその手前には鳥居。 これは神社だ。お寺に神社。どう見ても、お寺が主で、神社が住。 明らかに廃仏毀釈を波をまぬがれている。 | ![]() |
やがて、神道と仏教は融合する。神仏習合だな。だけどその形態は《本地垂迹》というもの。インドの仏・菩薩が民衆を救うため、日本においては神という仮の姿をとって現れているという立場だな。だから、どうしたってインドの仏や菩薩が主で、神は従ということになる。
だけど、それは表向きのことで、実際の信仰生活においては、日本人は神羅万象への崇敬の念を基礎とする古来の信仰を1ミリも揺るがすことがなかった。・・・「私が思うには・・・」だけどね。
だから、廃仏毀釈なんて運動、何にも必要がなかった。原理主義に踊らされた人間ってのは哀れなもんだ。何百年にもわたる祖先たちの信仰の対象が、破壊され、木くずになって火にくべられた。積み重ねられた父祖の営みに唾を吐き、汚した。バーミアンの仏像破壊なんて大したことじゃない。日本の廃仏毀釈に比べれば。
一時の感情で仏教の破壊活動に走った彼らは、その後、どんなに悔やんだことだろう。どんなに苦しんだことだろう。
『仏教って何ですか』 池上彰 飛鳥新社 ¥ 600 誕生、伝来から、葬式や戒名の意味、新興宗教まで。仏教にまつわる疑問に池上 彰が答える |
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彼らを救ったのは、仏教系の宗教だった。「救われた」と称する彼らは、悟りを開いたのか?涅槃に寂静したのか?もう、輪廻して、この世に転生してくることはないのか?
お金はないけど、それなりに生活はできそうだ。女に狂って、我を失うことは、・・・間違いなく、もうない。祖父母、父母を見送った私だから、年長者を見送ることには慣れた。同じことがあっても、おそらく大丈夫だろう。年少のものを失うのは、・・・これは耐えられないかもしれない。
自分が死ぬことはどうだ?・・・やっぱり嫌だな。嫌ではあるが、『ついに行く道とはかねて聞きしかど昨日今日とは思はざりしを』っていう程度に行くことになるんだろう。それはそれでいい。
自分がこの世から去る日は、以前に比べ、確実に近づいているわけだし、それまでの間に、まだまだどんな苦難があるかは分からない。だけど、そんなことがあっても、宗教に救われたいわけじゃないんだよな。
神仏や、お日さまや、いろんなものに手を合わせることはあるけど、「救ってください」って言ってるわけじゃない。山に行くと、いろんなところに神さまや仏さまがいる。手を合わせるたびにお願いするほど欲深くもない。
そうだなぁ。「こんにちは」とかね。「雨ですね」とかね。手を合わせてそんなことを言ってるかな。「よろしくね」とかね。辛いことがあっても、いろいろな人の生き方に学んで、なんとかやっていくんだろう。
本書の中に、著者とダライ・ラマの対談が収録されている。600万人に及ぶチベット人の命運、さらにはチベット人の存立そのものを双肩に担い、あがき苦しむことはなかったのだろうか。著者は、ダライ・ラマの生き方を次のように言う。《後ろを振り返っても仕方がない。真実を語り、慈悲を実践することで前に進んでいくしかない》
鏡にしたい。


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