『怨霊とは何か 菅原道真・平将門・崇徳院』 山田雄司
『東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春を忘るな』と菅原道真が読んだ2月は901年。失意の中で亡くなったのは2年後の903年。道真を追い落とす陰謀ののち、時平は同母妹の穏子を醍醐天皇の女御として入内させた。また宇多法皇との関係も改善し、902年には最初の荘園整理令を出し、史料上で最後といわれる班田を実行した。また、時平の治世は延喜の治と呼ばれている。
そんな中、最初の異変は、すでに904年に起こっている。雷雨が続き、内裏清涼殿のすぐそばにも雷が落ちた。夏には雹まで降った。賀茂川があふれ、濁流となって平安京を襲った。異変が人に及んだのは、しばらく後の908年のこと。道真追い落としに加担した藤原菅根が変死する。まだこの時点では、資料上、菅根の死を怨霊の仕業に結びつけるものはない様だ。
しかし、異変が張本人に及んでは、話が違う。909年に左大臣正二位の藤原時平が39歳の若さで亡くなっては、人々も道真の怨霊の登場を意識せざるを得なかったろう。
923年、醍醐天皇の皇太子保明(やすあきら)親王が21歳で夭逝。保明の母は時平の妹であった。いよいよ、道真の怨霊の祟りが身内に及んで、醍醐天皇は、相次いで怨霊鎮魂の手を打っていく。道真を右大臣に復し、一階加えて正二位を贈り、左遷の命令を取り消した。延喜から延長への改元も、怨霊を慰撫するためだろう。
しかし、道真の怨霊は鎮まらない。
925年、保明親王の皇子で時平の娘を母とする慶頼王(よしよりおう)がわずか5歳で夭逝。930年には内裏に落雷があり、大納言藤原清貫は袍に火がついて死亡。右中弁平希世(まれよ)は顔が焼けただれて死亡。右兵衛佐美努忠包(ただかね)は髪が焼けて死亡。紀陰連(かげつら)は腹部が焼けただれて悶乱。安曇宗仁は膝を焼かれて倒れ伏す。
内裏への落雷と、その大きな被害に衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、930年に46歳で死んでいる。
もしもこれらのすべてを怨霊の仕業と意識したなら、醍醐天皇でなくても“死”に取り付かれるだろう。そう思わせるだけの激しい祟り方だ。だけど、亡くなる前の道真は、決して醍醐天皇を怨んだりせずに、仏教に帰依していったという。その道真がなぜここまで祟るのか。
おもしろい解釈がある。
道真は優しい人物であった。それだけに恨みつらみを表に出さず、すべてを腹の中に飲み込んだ。しかし、道真が死ぬと、肉体が滅び、器が亡くなったことによって、それまで秘められていた恨みつらみのすべたが爆発するようにあふれ出て、もはやだれにも止められないほど激しく暴れだした。
納得。



だとすれば、将門は、生きながらにけっこう吐き出したはず。首が恨みつらみを訴えたとか、もうひと戦するために、体を求めて関東に飛び去ったとかの伝説は、おどろおどろしくはあるものの、あっさりしている。
神田明神に祀られたいわれは、俵藤太秀郷が、将門への勝利を祈願して、のちに社を新造し、将門の霊を祀ったとか。あるいは、将門の首が京にさらされたのち、天変地異が続いたことから、神田明神に神として祀ったとか。
だけど、道真の怨霊ように、誰彼を取り殺したという話ではない。
やはり、そのへんは恨みつらみを腹の中に飲み込んで死んでいった道真との違いかな。
ただし、この坂東の親皇は、道真のように分かりが良くないのかもしれない。いまだに、神に祭り上げられっぱなしになるつもりはない様だ。
京から飛んできた将門の首がたどり着いたとされる場所にある“将門の首塚”。ここに手を入れようとするたびに問題が起きる。1923年の関東大震災による被災があり、首塚周辺は、調査ののち埋め戻され、その上に大蔵省の仮庁舎が建てられたという。しばらくすると、大蔵官僚の中に病気になるものが続出。工事関係者にもけが人や死亡者が相次いだという。結局、塚の上の庁舎は取り壊され、1928年には盛大に将門鎮魂祭が行われたという。
アメリカによる空襲で、このあたりは焦土と化した。GHQが入って来てからは、モータープール建設用地として接収され、米軍のブルドーザーによって焼け跡の整地が行われた。ところが、そのさなか、ブルドーザーが石に躓いて横転し、二名がその下敷きになった。その後も労務者の事故が絶えず、調べたところ、石は将門の首塚の石標であったという。近隣町会の嘆願でGHQも了承し、首塚は残されることになったという。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
そんな中、最初の異変は、すでに904年に起こっている。雷雨が続き、内裏清涼殿のすぐそばにも雷が落ちた。夏には雹まで降った。賀茂川があふれ、濁流となって平安京を襲った。異変が人に及んだのは、しばらく後の908年のこと。道真追い落としに加担した藤原菅根が変死する。まだこの時点では、資料上、菅根の死を怨霊の仕業に結びつけるものはない様だ。
しかし、異変が張本人に及んでは、話が違う。909年に左大臣正二位の藤原時平が39歳の若さで亡くなっては、人々も道真の怨霊の登場を意識せざるを得なかったろう。
923年、醍醐天皇の皇太子保明(やすあきら)親王が21歳で夭逝。保明の母は時平の妹であった。いよいよ、道真の怨霊の祟りが身内に及んで、醍醐天皇は、相次いで怨霊鎮魂の手を打っていく。道真を右大臣に復し、一階加えて正二位を贈り、左遷の命令を取り消した。延喜から延長への改元も、怨霊を慰撫するためだろう。
しかし、道真の怨霊は鎮まらない。
925年、保明親王の皇子で時平の娘を母とする慶頼王(よしよりおう)がわずか5歳で夭逝。930年には内裏に落雷があり、大納言藤原清貫は袍に火がついて死亡。右中弁平希世(まれよ)は顔が焼けただれて死亡。右兵衛佐美努忠包(ただかね)は髪が焼けて死亡。紀陰連(かげつら)は腹部が焼けただれて悶乱。安曇宗仁は膝を焼かれて倒れ伏す。
内裏への落雷と、その大きな被害に衝撃を受けた醍醐天皇は体調を崩し、930年に46歳で死んでいる。
もしもこれらのすべてを怨霊の仕業と意識したなら、醍醐天皇でなくても“死”に取り付かれるだろう。そう思わせるだけの激しい祟り方だ。だけど、亡くなる前の道真は、決して醍醐天皇を怨んだりせずに、仏教に帰依していったという。その道真がなぜここまで祟るのか。
おもしろい解釈がある。
道真は優しい人物であった。それだけに恨みつらみを表に出さず、すべてを腹の中に飲み込んだ。しかし、道真が死ぬと、肉体が滅び、器が亡くなったことによって、それまで秘められていた恨みつらみのすべたが爆発するようにあふれ出て、もはやだれにも止められないほど激しく暴れだした。
納得。
中公新書 ¥ 821 怨霊はいかに恐れられたのか。霊魂の行方から怨霊の祟りとその鎮魂 |
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だとすれば、将門は、生きながらにけっこう吐き出したはず。首が恨みつらみを訴えたとか、もうひと戦するために、体を求めて関東に飛び去ったとかの伝説は、おどろおどろしくはあるものの、あっさりしている。
神田明神に祀られたいわれは、俵藤太秀郷が、将門への勝利を祈願して、のちに社を新造し、将門の霊を祀ったとか。あるいは、将門の首が京にさらされたのち、天変地異が続いたことから、神田明神に神として祀ったとか。
だけど、道真の怨霊ように、誰彼を取り殺したという話ではない。
やはり、そのへんは恨みつらみを腹の中に飲み込んで死んでいった道真との違いかな。
ただし、この坂東の親皇は、道真のように分かりが良くないのかもしれない。いまだに、神に祭り上げられっぱなしになるつもりはない様だ。
京から飛んできた将門の首がたどり着いたとされる場所にある“将門の首塚”。ここに手を入れようとするたびに問題が起きる。1923年の関東大震災による被災があり、首塚周辺は、調査ののち埋め戻され、その上に大蔵省の仮庁舎が建てられたという。しばらくすると、大蔵官僚の中に病気になるものが続出。工事関係者にもけが人や死亡者が相次いだという。結局、塚の上の庁舎は取り壊され、1928年には盛大に将門鎮魂祭が行われたという。
アメリカによる空襲で、このあたりは焦土と化した。GHQが入って来てからは、モータープール建設用地として接収され、米軍のブルドーザーによって焼け跡の整地が行われた。ところが、そのさなか、ブルドーザーが石に躓いて横転し、二名がその下敷きになった。その後も労務者の事故が絶えず、調べたところ、石は将門の首塚の石標であったという。近隣町会の嘆願でGHQも了承し、首塚は残されることになったという。


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