表武蔵『埼玉 地名の由来を歩く』 谷川彰英
もちろん、武蔵国の国府は府中に置かれていた。国分寺は国分寺にあった。両方とも東京で、埼玉じゃない。だとすると、武蔵の国の中心は、やはり東京だったのか。埼玉が東京に当たる地域の後塵を拝す現状は近世以降の歴史を原因とするものではなく、その地理的環境から生まれた自然の成り行きなのか。・・・いや違う。
今では武蔵国どころか日本の中心となった東京の衛生圏としか見なされなくなってしまった埼玉・千葉・神奈川であるが、古代にあっては、埼玉・千葉・神奈川に軸があり、後に江戸と呼ばれる東京23区は単なる入江でしかなかった。
・・・北関東? 茨城・栃木・群馬?・・・アソコは、また別よ。
話を戻して、東京は、最初から周辺の衛星圏を従える中核であったわけではない。いや、武蔵の中心ですらなかった。そうでなかった根拠として、著者が極めて分かりやすい事実をあげてくれている。宝亀二(771)年に、武蔵国が、それまで所属していた東山道から東海道に移されたことである。この年までは、武蔵国に向かうルートは東山道で、上野国、下野国を経て武蔵国へ入ってきたということである。当然、埼玉エリアが武蔵国の表玄関であったわけである。
だいたい国府や国分寺といっても、東京都内という言い方もできるが、そこは埼玉の先だ。この間行った府中競馬場に向かう武蔵野線だって、その大半は埼玉県を走っている。武蔵野線は、埼玉県民を府中本町の府中競馬場か、船橋法典の中山競馬場に運ぶ鉄道なのだ。・・・いやいや、そうじゃなくって・・・
さらにその奥にある奥多摩という地域。実は、山伝いに秩父と文化がつながっている。多摩地区全体を埼玉と考えてもいい。???


さらに著者が紹介するのは、人々の心の支え。『延喜式』は醍醐天皇の命で編纂された法典で、その中に《神名帳》という大小の神祇の名称を記している。ここに記されている神社を式内社と呼び、これを知ることで平安時代に、それぞれの地域で、どの神社が重要視されていたかがわかるという。その式内社の数が、武蔵国の中でも埼玉エリアが圧倒しているんだそうだ。武蔵国44座の式内社の内、埼玉エリアに33座だって。
それを周辺の国と比べてみると、相模国13座、安房国6座、上総国5座、下総国11座、常陸国28座、上野国12座、下野国11座と、諸国を圧倒している。
もう一つ、著者が、埼玉エリアこそが表武蔵と呼ぶにふさわしい地域であったという根拠は、埼玉古墳分の存在。県民ならば知っている。稲荷山古墳から発見された金錯命鉄剣。そこに刻まれた《辛亥年》とは471年。《ワカタケル大王》とは雄略天皇。地域の首領《オワケの臣》は大和朝廷の軍事官僚の代表として雄略天皇の政務を補佐した。埼玉古墳群のある行田市周辺には桁外れに兄弟な力を持った豪族が存在した。
今、ここにある古墳公園は、前方後円墳を体感できる貴重な場所である。近所のお店では、粘土で埴輪が作れる。作り方もご指導いただけるし、出来上がった埴輪は、乾燥させて、焼き上げて、送ってくれる。1000円だった。・・・とは言っても、子供が小さかったことだから、もう20年も前の話。そのすぐ近くの博物館で、鉄剣も見られる。・・・お得だ。
付け加えるが、私の生まれた秩父は、武蔵ではなかったそうだ。じゃあ何かというと、秩父は知知夫国という独立した国だったそうだ。ああ、やっぱり違ったのか。そうだと思った。天気予報で埼玉県の地方をいう時、《南部・北部・秩父》って言ってたもん。やっぱり本質的には、埼玉の仲間じゃなかったんだ。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
今では武蔵国どころか日本の中心となった東京の衛生圏としか見なされなくなってしまった埼玉・千葉・神奈川であるが、古代にあっては、埼玉・千葉・神奈川に軸があり、後に江戸と呼ばれる東京23区は単なる入江でしかなかった。
・・・北関東? 茨城・栃木・群馬?・・・アソコは、また別よ。
話を戻して、東京は、最初から周辺の衛星圏を従える中核であったわけではない。いや、武蔵の中心ですらなかった。そうでなかった根拠として、著者が極めて分かりやすい事実をあげてくれている。宝亀二(771)年に、武蔵国が、それまで所属していた東山道から東海道に移されたことである。この年までは、武蔵国に向かうルートは東山道で、上野国、下野国を経て武蔵国へ入ってきたということである。当然、埼玉エリアが武蔵国の表玄関であったわけである。
だいたい国府や国分寺といっても、東京都内という言い方もできるが、そこは埼玉の先だ。この間行った府中競馬場に向かう武蔵野線だって、その大半は埼玉県を走っている。武蔵野線は、埼玉県民を府中本町の府中競馬場か、船橋法典の中山競馬場に運ぶ鉄道なのだ。・・・いやいや、そうじゃなくって・・・
さらにその奥にある奥多摩という地域。実は、山伝いに秩父と文化がつながっている。多摩地区全体を埼玉と考えてもいい。???
『埼玉 地名の由来を歩く』 谷川彰英 ベスト新書 ¥ 920 「古代史の彩」と「街道筋の繁栄」の二つのコンセプトが埼玉県の歴史と風土をなしている |
さらに著者が紹介するのは、人々の心の支え。『延喜式』は醍醐天皇の命で編纂された法典で、その中に《神名帳》という大小の神祇の名称を記している。ここに記されている神社を式内社と呼び、これを知ることで平安時代に、それぞれの地域で、どの神社が重要視されていたかがわかるという。その式内社の数が、武蔵国の中でも埼玉エリアが圧倒しているんだそうだ。武蔵国44座の式内社の内、埼玉エリアに33座だって。
それを周辺の国と比べてみると、相模国13座、安房国6座、上総国5座、下総国11座、常陸国28座、上野国12座、下野国11座と、諸国を圧倒している。
もう一つ、著者が、埼玉エリアこそが表武蔵と呼ぶにふさわしい地域であったという根拠は、埼玉古墳分の存在。県民ならば知っている。稲荷山古墳から発見された金錯命鉄剣。そこに刻まれた《辛亥年》とは471年。《ワカタケル大王》とは雄略天皇。地域の首領《オワケの臣》は大和朝廷の軍事官僚の代表として雄略天皇の政務を補佐した。埼玉古墳群のある行田市周辺には桁外れに兄弟な力を持った豪族が存在した。
今、ここにある古墳公園は、前方後円墳を体感できる貴重な場所である。近所のお店では、粘土で埴輪が作れる。作り方もご指導いただけるし、出来上がった埴輪は、乾燥させて、焼き上げて、送ってくれる。1000円だった。・・・とは言っても、子供が小さかったことだから、もう20年も前の話。そのすぐ近くの博物館で、鉄剣も見られる。・・・お得だ。
付け加えるが、私の生まれた秩父は、武蔵ではなかったそうだ。じゃあ何かというと、秩父は知知夫国という独立した国だったそうだ。ああ、やっぱり違ったのか。そうだと思った。天気予報で埼玉県の地方をいう時、《南部・北部・秩父》って言ってたもん。やっぱり本質的には、埼玉の仲間じゃなかったんだ。


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