開戦『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』 渡辺惣樹
《1939/3/31 チェンバレンのポーランド独立保障宣言》
んんん、こういう歴史のしっかりした資料を、丹念に当たっておくことが肝心なんだな。日本の世界史の教科書なんかじゃ、この辺は「ドイツが悪い」とイメージだけを先行させて、内容のないものになってしまっている。
東京書籍《世界史B》
この世界史の教科書の書き方では、本当のことが書かれていないことになる

ハーバート・フーバー元米大統領は、1938年3月22日に英首相ネヴィル・チェンバレンと会談した。その時、チェンバレンは《ヒトラーは東へ向かい、スターリンと衝突する》というフーバーの考えに同意していたという。つまり、この段階で、ドイツがのちにズデーテン地方を要求して東に向かうことは既定の路線であり、ミュンヘン会談も予定通りの決定であったわけだ。
その既定路線が変わったのは、F・D・Rによる圧力だった。F・D・Rは、駐英大使ジョゼフ・P・ケネディに、チェンバレンへの圧力をかけさせていた。F・D・Rがチェンバレンに対ポーランド独立保障を出させることに成功すると、今度はウィリアム・ブリット駐仏大使を通して、ポーランドに対ドイツ強硬策を取らせた。そうすることで、ダンツィヒ、ポーランド回廊問題を、ヒトラーとの外交交渉によって解決する道を閉ざしたのだ。
英仏によるポーランド独立保障によってヒトラーがポーランドに対する要求を貫徹すれば、西部戦線において英仏との戦いが発生する。ヒトラーはポーランドに対する要求を貫徹すると同時に、スターリンとの間に協定を結び、東部戦線での戦いを回避する必要が出てきた。
これはスターリンにとって願ってもない状況だった。スターリンは英仏の側にも、ヒトラーの側にも、どちらにも与することができる立場に立った。戦うか戦わないかも選択できた。ヨーロッパのパワーバランスは、一気にソ連に傾いた。これもF・D・Rのおかげであった。
ロシアの要求を英仏は蹴った。フィンランド・バルト三国・東プロシア・ベッサラビア・ブコビナすべての併合を、ソ連に許すわけにはいかないからだ。英仏との決裂と同時に、ヒトラーとスターリンが握手した。
しかし、不可侵条約成立後もヒトラーは、ポーランドとの交渉によって領土問題を解決しようと努力した。ヒトラーはネヴィル・ヘンダーソオン駐ベルリン英国大使に接触し、以下のことを伝えている。
8月31日、ドイツ軍がポーランド国境に布陣している中でも、ヒトラーはポーランドに交渉を持ちかけている。英仏の独立保障と米国による厚い支援の約束を背景に動きの鈍いポーランドに対し、ドイツは9月1日に侵攻を開始する。
世界史の教科書は、そう書いてほしい。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
私は今、議会に次のように報告しなければなりません。ポーランドの独立を脅かす行動があり、ポーランド政府が抵抗せざるを得ないと決めたときに、わがイギリス政府は、ポーランド政府を全面的に支援する義務があります。ポーランド政府にはそのように伝えてあります。フランス政府も同様の立場であることを付言しておきます。同政府は、私がこの場でこのように発言することを承知しております。 |
東京書籍《世界史B》
ドイツは、1938年3月にオーストリアを併合し、さらにチェコスロバキア内のドイツ人居住地区ズデーテン地方の割譲を要求した。チェコスロバキアはこれを拒否したが、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは38年9月、フランス首相とともにヒトラー、ムッソリーニとミュンヘン会談を行って、ドイツの要求に譲歩した。この英・仏宥和政策に乗じて、ドイツは翌年39年3月、チェコスロバキアを解体し、イタリアも4月にはアルバニアを併合した。 ドイツはさらに、ポーランドにダンツィヒ市(現グダニスク)の返還とポーランド回廊を横断する陸上交通路を要求した。東西の二正面作戦を避けたいドイツは、39年8月独ソ不可侵条約を結んで、世界を驚かせた。こうしてドイツ軍は、39年9月1日、ポーランドに侵攻した。宥和政策の失敗を悟った英・仏は、9月3日にドイツに宣戦し、第二次世界大戦がはじまった。 |
『誰が第二次世界大戦を起こしたのか』 渡辺惣樹 草思社 ¥ 1,836 ヒトラー、チャーチル、ルーズベルト… 悲劇の元凶はいったい誰だったのか? |
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ハーバート・フーバー元米大統領は、1938年3月22日に英首相ネヴィル・チェンバレンと会談した。その時、チェンバレンは《ヒトラーは東へ向かい、スターリンと衝突する》というフーバーの考えに同意していたという。つまり、この段階で、ドイツがのちにズデーテン地方を要求して東に向かうことは既定の路線であり、ミュンヘン会談も予定通りの決定であったわけだ。
その既定路線が変わったのは、F・D・Rによる圧力だった。F・D・Rは、駐英大使ジョゼフ・P・ケネディに、チェンバレンへの圧力をかけさせていた。F・D・Rがチェンバレンに対ポーランド独立保障を出させることに成功すると、今度はウィリアム・ブリット駐仏大使を通して、ポーランドに対ドイツ強硬策を取らせた。そうすることで、ダンツィヒ、ポーランド回廊問題を、ヒトラーとの外交交渉によって解決する道を閉ざしたのだ。
英仏によるポーランド独立保障によってヒトラーがポーランドに対する要求を貫徹すれば、西部戦線において英仏との戦いが発生する。ヒトラーはポーランドに対する要求を貫徹すると同時に、スターリンとの間に協定を結び、東部戦線での戦いを回避する必要が出てきた。
これはスターリンにとって願ってもない状況だった。スターリンは英仏の側にも、ヒトラーの側にも、どちらにも与することができる立場に立った。戦うか戦わないかも選択できた。ヨーロッパのパワーバランスは、一気にソ連に傾いた。これもF・D・Rのおかげであった。
ロシアの要求を英仏は蹴った。フィンランド・バルト三国・東プロシア・ベッサラビア・ブコビナすべての併合を、ソ連に許すわけにはいかないからだ。英仏との決裂と同時に、ヒトラーとスターリンが握手した。
しかし、不可侵条約成立後もヒトラーは、ポーランドとの交渉によって領土問題を解決しようと努力した。ヒトラーはネヴィル・ヘンダーソオン駐ベルリン英国大使に接触し、以下のことを伝えている。
ドイツの要求はダンツィヒ回復とポーランド回廊問題の解決で十分である。英国との戦いは望んでおらず、旧ドイツ領の回復は、“交渉の継続”でかまわない。 |
8月31日、ドイツ軍がポーランド国境に布陣している中でも、ヒトラーはポーランドに交渉を持ちかけている。英仏の独立保障と米国による厚い支援の約束を背景に動きの鈍いポーランドに対し、ドイツは9月1日に侵攻を開始する。
世界史の教科書は、そう書いてほしい。


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