『歌謡曲から「昭和」を読む』 なかにし礼
これまたずい分前の本なんだけど、面白かったな~。
題名に入っている「昭和」という言葉に惹きつけられました。平成に入って30年たちました。30年前っていうと、私28歳ですよ。私は昭和よりも平成を長く生きてるんですね。昭和は28年。平成は31年。その先、どんだけ長く生きたとしても、私は昭和の人間です。なによりも、私の心が昭和です。
何が嬉しくて、なにが悲しくて、なにが楽しくて、なにが悔しいか。心の動きの全ては昭和に作られましたからね。親の死に目をのぞけば、泣くほどのことは昭和で終わりました。・・・最近、涙が流れるのは、ひとえに涙腺の緩みが原因。
・・・歴史は専門分野ですからね。笠戸丸のことは知ってます。もとはと言えばロシアの船で、日露戦争で捕獲して、《笠戸丸》と命名されたわけです。笠戸丸の最後は、1945年、元の主であったソ連によって沈められて終わります。だから、沖を航行している笠戸丸は、この歌が歌われる時点では、沈んだ船、幽霊船ということになりますね。「ああ、この歌は能と同じで、思いを残して逝った者たちへの鎮魂の歌だ」と、そう思いました。“オンボロロ オンボロボロロー”は、呪文の言葉ですね。


歌謡曲というのは、「歌詞と曲と歌い手が一体となって、ヒットを狙って売り出される商業的歌曲」と、なかにし礼さんは定義付けている。その点、歌謡曲と呼べる第一号は《カチューシャの唄》なんだそうです。
「カチューシャ可愛や/別れのつらさ/せめて淡雪とけぬ間と/神に願いをララかけましょか」
いいですよね。「ララ」がいいですよね。
いい歌謡曲には力がある。力があるからヒットする。なかにし礼さんは、歌謡曲の全盛期をヒットメーカーの一人の作詞家として、その人生の盛期を過ごしたわけですね。
その人生の始まりは満州だったそうです。昭和13年生まれだそうです。家族で住んでいたのは牡丹江だそうです。1945年8月11日のソ連軍機の空爆を皮切りに敗戦に伴う引き揚げが始まったわけですね。お父上はソ連軍に徴用され、2ヶ月で戻されたものの、その間の酷使がもとで年の暮れに亡くなられたそうです。・・・・・・・。それから1年余後、本土に引き揚げることになったようです。その引揚船の中で、「リンゴの唄」を聞いたそうです。なかにし礼さんは、「リンゴの唄は残酷な歌だった」と言ってます。
“満州で生まれた”ということは、なかにし礼さんの原点。・・・原点って言う言葉はよく使うけど、これって歳を重ねても薄まらないんだよね。逆にある時期以降は、逆に人生がその原点に支配されていくような気がするんですが。・・・私の場合ですけどね。
いい歌謡曲には力がある。軍歌も、その歌謡曲の一分野として生まれたんですね。いい軍歌は、いい歌謡曲なわけですね。だから、いい軍歌にも力があるんですね。力がある軍歌は、若者たちを戦争に駆り立てたわけです。
作曲家も作詞家も、いい歌謡曲が書ける人ほどいい軍歌を書いたわけですね。なかにし礼さんは、避けて通ること無く、この本の中でそのことに触れています。
戦後の歌謡曲の移り変わりは、昭和35年生まれの私の人生にも重なります。ただ、ある時期から、テレビから流れてくる流行歌に、私はまったく関心を失うんですね。失ったということ自体、この本を読んで気がついたんですけどね。
分かりました。そのある時期、歌謡曲が終わってたんですね。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
題名に入っている「昭和」という言葉に惹きつけられました。平成に入って30年たちました。30年前っていうと、私28歳ですよ。私は昭和よりも平成を長く生きてるんですね。昭和は28年。平成は31年。その先、どんだけ長く生きたとしても、私は昭和の人間です。なによりも、私の心が昭和です。
何が嬉しくて、なにが悲しくて、なにが楽しくて、なにが悔しいか。心の動きの全ては昭和に作られましたからね。親の死に目をのぞけば、泣くほどのことは昭和で終わりました。・・・最近、涙が流れるのは、ひとえに涙腺の緩みが原因。
石狩挽歌 作曲者 : 浜圭介 作詞者 : なかにし礼 海猫が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖の やん衆がさわぐ 雪に埋もれた 番屋の隅で わたしゃ夜通し 飯を炊く あれからニシンは どこへ行ったやら 破れた網は 問い刺し網か 今じゃ浜辺で オンボロロ オンボロボロロー 沖を通るは 笠戸丸 わたしゃ涙で にしん曇りの 空を見る 燃えろ篝火 朝里の浜に 海は銀色 ニシンの色よ ソーラン節に 頬そめながら わたしゃ大漁の 網を曳く あれからニシンは どこへ行ったやら オタモイ岬の ニシン御殿も 今じゃさびれて オンボロロ オンボロボロロー かわらぬものは 古代文字 わたしゃ涙で 娘ざかりの 夢を見る |
『歌謡曲から「昭和」を読む』 なかにし礼 NHK出版 ¥ 756 兵制に時代が変わって27年 歌謡曲=流行歌はいま、どこへ行ってしまったのか |
歌謡曲というのは、「歌詞と曲と歌い手が一体となって、ヒットを狙って売り出される商業的歌曲」と、なかにし礼さんは定義付けている。その点、歌謡曲と呼べる第一号は《カチューシャの唄》なんだそうです。
「カチューシャ可愛や/別れのつらさ/せめて淡雪とけぬ間と/神に願いをララかけましょか」
いいですよね。「ララ」がいいですよね。
いい歌謡曲には力がある。力があるからヒットする。なかにし礼さんは、歌謡曲の全盛期をヒットメーカーの一人の作詞家として、その人生の盛期を過ごしたわけですね。
その人生の始まりは満州だったそうです。昭和13年生まれだそうです。家族で住んでいたのは牡丹江だそうです。1945年8月11日のソ連軍機の空爆を皮切りに敗戦に伴う引き揚げが始まったわけですね。お父上はソ連軍に徴用され、2ヶ月で戻されたものの、その間の酷使がもとで年の暮れに亡くなられたそうです。・・・・・・・。それから1年余後、本土に引き揚げることになったようです。その引揚船の中で、「リンゴの唄」を聞いたそうです。なかにし礼さんは、「リンゴの唄は残酷な歌だった」と言ってます。
“満州で生まれた”ということは、なかにし礼さんの原点。・・・原点って言う言葉はよく使うけど、これって歳を重ねても薄まらないんだよね。逆にある時期以降は、逆に人生がその原点に支配されていくような気がするんですが。・・・私の場合ですけどね。
いい歌謡曲には力がある。軍歌も、その歌謡曲の一分野として生まれたんですね。いい軍歌は、いい歌謡曲なわけですね。だから、いい軍歌にも力があるんですね。力がある軍歌は、若者たちを戦争に駆り立てたわけです。
作曲家も作詞家も、いい歌謡曲が書ける人ほどいい軍歌を書いたわけですね。なかにし礼さんは、避けて通ること無く、この本の中でそのことに触れています。
戦後の歌謡曲の移り変わりは、昭和35年生まれの私の人生にも重なります。ただ、ある時期から、テレビから流れてくる流行歌に、私はまったく関心を失うんですね。失ったということ自体、この本を読んで気がついたんですけどね。
分かりました。そのある時期、歌謡曲が終わってたんですね。
昭和という時代に生まれ、昭和という時代に翻弄され傷つけられながら、一方で、昭和によって拾われ育まれ生かされてきた人間の、私は一人だった。昭和日本を憎み、しかしより以上に愛されたいと心から願い、その願いからほとばしり出た思いを書き連ねたのが、私の歌だった。・・・その昭和という時代が遠く去った以上、私は私で別の道を歩んでいかなければならないと思ったのである。 本書p174 |


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