『山に遊ぶ心』 中野孝次
1993年初版の本。私はその頃33歳で、ちょうど山をあきらめる気持ちを固める頃だな。だから当然、読んでないです。今回、初めて読みました。この本の存在を知って、図書館で借りました。まったく、図書館というのはありがいたものだ。おかげでこういった良書に触れることができる。
山の随筆を読むのは楽しい。歩いた場所が違っても、実際の体験は違っても、“山に遊ぶ”ということにおいては、関係なく共感できますからね。
《登山によって得られた楽しみは、いかにしてもこれを他の人に伝えることはできまい》とは、『アルプス登攀記』を書いたウィンパーの告白であるという。
私なんかには、ウィンパーの心境は思いもよらないが、確かに手を変え品を変えてその時の感動を伝えようとしても、所詮、「私は感動した」という言葉を言い換えているに過ぎない。だから、それ以上のものを伝えられているはずもない。聞いた人や呼んだ人に私の心を移植するわけにもいかないのだから、仕方がない。
だからといって、聞いた人や呼んだ人が表してくれた反応を無下にするのも大人げない。それなりに受け止めておけばいいし、「この人は山さえ言っていれば幸せなのか」と思われるなら、こんなに結構なことはないじゃないですか。
《秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる》
大学受験の重圧あら逃げ出して、涸沢にテント張って、あちこち歩き回ったり、ボーとした日々を過ごした。「ああ、涼しい風が吹き始めたなぁ」って思ったら9月3日で、家に電話したら、捜索願を出されていた。
《山の美は、生物の恐怖や不安や緊張感を底に踏まえたところにしか現れないから、たぶん比類なく美しいのである》
“一人で山と向かい合う”ことができた時、山での体験は比類なく美しいものに包まれていく。“一人で山と向かい合う”って言ったってなあ。今の私にできるのは、そのへんの山だけですからね。それでも“一人で山に向かい合う”って、今の私にはそうそうできることじゃない。
山に登る理由? ・・・ないな。理由はありません。「山に行く時間が取れたから行く」って、そんなくらいかな。それは、呼吸と同じように必要欠くべからざる行動で、なんらかの理由があってやってることじゃなくて、そうするのが当たり前のこと。
私は、おおよそ25年ほど山から離れていたから分かるんだけど、その期間は、他の方法で心をコントロールすることが必要だった。けっこう片寄ってることなので、とてもじゃないけど人前で言えないけどね。
誰でもそうでしょ。自分の心をコントロールしてるでしょ。山に行く人って、そんな意識せずに、山に行くことで自然にそれを行ってるんでしょうね。だから、今の私は、ほんの一年少し前まで行っていた、口に出すこともはばかられるような破廉恥な行為をせずに済んでいます。
それは何かって? だから、あれをこんな風にして、あんなことやこんなことを・・・。 あー❢

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
山の随筆を読むのは楽しい。歩いた場所が違っても、実際の体験は違っても、“山に遊ぶ”ということにおいては、関係なく共感できますからね。
《登山によって得られた楽しみは、いかにしてもこれを他の人に伝えることはできまい》とは、『アルプス登攀記』を書いたウィンパーの告白であるという。
私なんかには、ウィンパーの心境は思いもよらないが、確かに手を変え品を変えてその時の感動を伝えようとしても、所詮、「私は感動した」という言葉を言い換えているに過ぎない。だから、それ以上のものを伝えられているはずもない。聞いた人や呼んだ人に私の心を移植するわけにもいかないのだから、仕方がない。
だからといって、聞いた人や呼んだ人が表してくれた反応を無下にするのも大人げない。それなりに受け止めておけばいいし、「この人は山さえ言っていれば幸せなのか」と思われるなら、こんなに結構なことはないじゃないですか。
『山に遊ぶ心』 中野孝次
あきらかにしりぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり 道元 |
|
大学受験の重圧あら逃げ出して、涸沢にテント張って、あちこち歩き回ったり、ボーとした日々を過ごした。「ああ、涼しい風が吹き始めたなぁ」って思ったら9月3日で、家に電話したら、捜索願を出されていた。
《山の美は、生物の恐怖や不安や緊張感を底に踏まえたところにしか現れないから、たぶん比類なく美しいのである》
“一人で山と向かい合う”ことができた時、山での体験は比類なく美しいものに包まれていく。“一人で山と向かい合う”って言ったってなあ。今の私にできるのは、そのへんの山だけですからね。それでも“一人で山に向かい合う”って、今の私にはそうそうできることじゃない。
山に登る理由? ・・・ないな。理由はありません。「山に行く時間が取れたから行く」って、そんなくらいかな。それは、呼吸と同じように必要欠くべからざる行動で、なんらかの理由があってやってることじゃなくて、そうするのが当たり前のこと。
私は、おおよそ25年ほど山から離れていたから分かるんだけど、その期間は、他の方法で心をコントロールすることが必要だった。けっこう片寄ってることなので、とてもじゃないけど人前で言えないけどね。
誰でもそうでしょ。自分の心をコントロールしてるでしょ。山に行く人って、そんな意識せずに、山に行くことで自然にそれを行ってるんでしょうね。だから、今の私は、ほんの一年少し前まで行っていた、口に出すこともはばかられるような破廉恥な行為をせずに済んでいます。
それは何かって? だから、あれをこんな風にして、あんなことやこんなことを・・・。 あー❢


- 関連記事
-
- 『蒼き山嶺』 馳星周 (2018/03/05)
- 『日曜の狩猟採集生活』 渓流編集部 (2018/02/05)
- 『山に遊ぶ心』 中野孝次 (2018/02/04)
- 短歌『山に遊ぶ心』 中野孝次 (2018/02/01)
- 『山怪実話大全』 東雅夫 (2018/01/14)