『生活のなかの神道』 ひろさちや
知らないうちに“いい歳”になってしまったけど、ここまで生きてきても、まだまだなにも納得できてない。いろいろと勉強もしてみたけど、結局、一番大事なことが分からない。その答えを求めていたはずなんだけど、逆にどんどん遠ざかって、今ではなにが知りたかったのかさえ思い出せない。
すぐ近くにありそうな気がするんだけど見つからない。時々、無意識の中で手ごたえを感じるんだけど、意識すると雲散霧消してしまう。
考えてみれば、子どものころからそうだって気がする。惜しいところまで近づいて、「この分ならいずれ」と思ったものの、結局、なにもつかめずに人生の終盤を迎えようとしている。
私がひろさちやさんの本を好んで読むのも、きっとそのせいだ。何かを、その中に見つけようよしている。
日本における霊的存在を示す原初的な語は“タマ”と呼ばれるものなんだそうだ。折口信夫さんのおっしゃることらしい。この“タマ”の善的要素が「カミ」になり、悪的要素が「モノ」になった。さらに善悪両方を兼ねたものが「オニ」だということらしい。妖怪は、“タマ”の悪的要素である「モノ」の形態ということですね。
柳田国男さんの説はちょっと違って、神々への信仰の衰退が妖怪を生み出してしまうという。妖怪とは神々の零落した姿で、かつては神として信仰されていたものが、落ちぶれた結果妖怪になったと。
柳田風に捉えれば、雪女は山の神への信仰が衰退したもの。河童は川の神、あるいは水神への信仰が衰退したものということになる。妖怪にはいつも“悲しさ”や“切なさ”が付きまとっているけど、その理由の一端が見えたような気がしますね。
そういう“悲しさ”や、“切なさ”の中に、何か大事なものが隠されているような気がするんだけどな。


江戸時代の後期に実在した仙崖義梵という禅僧のお話は面白かった。人からめでたい言葉を書いてくれと揮毫を頼まれて、《祖死父死子死孫死》と書いて渡したという。これは怒りますよね。縁起、悪そうですもんね。仙崖義梵はこう言ったそうです。
「そんなことはあるまい。まず爺さんが死んで、そのあとで父親が死ぬ。父が死んでから子が死ぬ。そのあとで孫が死ぬ。こんなめでたいことはあるまいぞ。この順番が一つでも狂えばどれだけ人は悲しみの涙を流さねばならないか、よく考えなさい」
これは参りました。
私に関しては、今のところ順調です。祖父が死に、祖母が死に、母が死んで、父が死にました。
順番と言えば順番ですが、ここで大きな問題がありますね。連れ合いが先か、私が先か。できることなら私が先に逝きたいな。
そう、今また、この本を読んで、自分が求めていたものに、何だか近づいたような気がしたんです。そう思って、読み返してみると、それはスッと脇の下から通り抜けて、振り返ると、もうどこにもないんです。
そして最後の時、その瞬間、私はそれに気づくのかな。それとも気づかずに逝くのかな。「なんだったっけかなぁ~、あれ・・・」って。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
すぐ近くにありそうな気がするんだけど見つからない。時々、無意識の中で手ごたえを感じるんだけど、意識すると雲散霧消してしまう。
考えてみれば、子どものころからそうだって気がする。惜しいところまで近づいて、「この分ならいずれ」と思ったものの、結局、なにもつかめずに人生の終盤を迎えようとしている。
私がひろさちやさんの本を好んで読むのも、きっとそのせいだ。何かを、その中に見つけようよしている。
日本における霊的存在を示す原初的な語は“タマ”と呼ばれるものなんだそうだ。折口信夫さんのおっしゃることらしい。この“タマ”の善的要素が「カミ」になり、悪的要素が「モノ」になった。さらに善悪両方を兼ねたものが「オニ」だということらしい。妖怪は、“タマ”の悪的要素である「モノ」の形態ということですね。
柳田国男さんの説はちょっと違って、神々への信仰の衰退が妖怪を生み出してしまうという。妖怪とは神々の零落した姿で、かつては神として信仰されていたものが、落ちぶれた結果妖怪になったと。
柳田風に捉えれば、雪女は山の神への信仰が衰退したもの。河童は川の神、あるいは水神への信仰が衰退したものということになる。妖怪にはいつも“悲しさ”や“切なさ”が付きまとっているけど、その理由の一端が見えたような気がしますね。
そういう“悲しさ”や、“切なさ”の中に、何か大事なものが隠されているような気がするんだけどな。
『生活のなかの神道』 ひろさちや 春秋社 ¥ 1,836 神社以外にも、福の神から妖怪、ご先祖様まで、日本にはたくさんの神さまがいる |
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江戸時代の後期に実在した仙崖義梵という禅僧のお話は面白かった。人からめでたい言葉を書いてくれと揮毫を頼まれて、《祖死父死子死孫死》と書いて渡したという。これは怒りますよね。縁起、悪そうですもんね。仙崖義梵はこう言ったそうです。
「そんなことはあるまい。まず爺さんが死んで、そのあとで父親が死ぬ。父が死んでから子が死ぬ。そのあとで孫が死ぬ。こんなめでたいことはあるまいぞ。この順番が一つでも狂えばどれだけ人は悲しみの涙を流さねばならないか、よく考えなさい」
これは参りました。
私に関しては、今のところ順調です。祖父が死に、祖母が死に、母が死んで、父が死にました。
順番と言えば順番ですが、ここで大きな問題がありますね。連れ合いが先か、私が先か。できることなら私が先に逝きたいな。
そう、今また、この本を読んで、自分が求めていたものに、何だか近づいたような気がしたんです。そう思って、読み返してみると、それはスッと脇の下から通り抜けて、振り返ると、もうどこにもないんです。
そして最後の時、その瞬間、私はそれに気づくのかな。それとも気づかずに逝くのかな。「なんだったっけかなぁ~、あれ・・・」って。


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