『蒼き山嶺』 馳星周
大学時代、山岳部におけるライバルであり、ザイルを繋いで命を預けあった得丸志郎、池谷博史、若林純一。若林は早くから才能を見出され、純粋に高みを目指してプロのクラーマーに、池谷は完全に山を離れ公安警察に、そして主人公の得丸は長野県警に入り山岳救助隊員として山を続けていた。
ある日、得丸は、残雪期の白馬鑓ヶ岳を喘ぎながら登る危なげな男に声をかけた。男は池谷博史だった。
・・・もうこれ以上、なんにも言わないほうがいいですよね。なにしろこの本は、その“内容紹介”に《過酷極まる逃避行の行く末は!? 山岳ミステリーの新たな傑作!! 》と書かれているくらいの本ですからね。もう、ハラハラ、ドキドキなわけです。
私は、あなたのハラハラ、ドキドキを奪ったりしません。どうぞ、どうぞ、存分にこのハラハラ、ドキドキを、・・・ご存分に❢
最後にもう一つ、言わせて下さい。
8000m峰14座の無酸素登頂をライフワークにした若林純一は、8座目となるk2に登頂した後、雪崩に飲み込まれて死にました。得丸と池谷が再開する10年前の出来事でした。
・・・うぉっ❢・・・もうなにも言わない。

「白馬岳から栂海新道を抜けて日本海まで」というこのルート。実は私、正直まったく同じだったか、はっきりしない部分もあるんだけど、このルート歩いています。無雪期ですけど・・・。
学生の時です。日本海から太平洋まで、飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈をフル縦走して歩き通す計画を実行に移しました。飛騨山脈の三俣蓮華までははじめて。木曽山脈で登ってたのは木曽駒と空木岳を単発で登っただけ。赤石山脈も赤石岳から南は知らなかった。そんな状態でした。この本は、上に書いたとおり、これ以上内容紹介しちゃうと申し訳ないので、その時のことでも・・・。
始まりは親不知。海水に触って太平洋を目指そうと思ったら、さすがは親不知、私の周りに、安全に海水に触れられそうな場所はありませんでした。で、そうそうに諦めて登り始めたのですが、いきなりすごい登りだったような気がします。
だけど、この頃は実際良く山に登っていたし、体力ありましたからね。何より今のように、肺気腫の症状なんか出てないからね。とにかく楽しかった。
以前、ブログに書いたことがあるような気もするんですが、その時の試みは赤石山脈の聖だけで頓挫しました。下山する女子大生グループから貰ったベーコンにあたって、聖平小屋のトイレを1つ独占する羽目になってしまったからです。
正直、赤石山脈に入る頃から、身体的に結構厳しい状況になってたんですね。どこかで、何かやめる理由を探していたような、そんなところがあったような気がします。身体が厳しくなければ、食い物に当たるなんてこともなかったと思います。体力以上に気力が果ててしまいました。完全敗退です。
でも、飛騨山脈を歩いている頃は、本当に楽しかった。
白馬までは、めったに人に合わなかったですね。牛首とかキレットとかは、本当にビビった。ビビりながら、思い切って挑んだ。その後、その感覚はだんだん麻痺して行きましたね。全然ってわけじゃないけど、キレットのときのように、硬直することはなくなりました。高度に対する恐怖心ってのは、ある程度は“慣れ”だと思います。
裏銀座を通って槍ヶ岳に行く頃は、だいぶ人も多くなってきました。大キレットを一人で通過するのははじめてでしたが、体調も天候も最良の状況で越えることができました。槍・穂高は、さすがに当時から人が多かったですね。
私の学生時代は以前の登山ブームと新たな登山ブームの間で、山は今に比べれば断然静かだった。山で年配の方を多く見るようになるのは、その数年後だったと思います。
山登りは、そこにあるだけ山というあまりにも大きすぎる存在の中で自分と向き合う行為だと思うんです。だから、できれば一人がいい。この旅の前半、後立山から裏銀座、三俣蓮華から槍ヶ岳までの行程は、だからとても楽しかったですね。
でも、「いつかもう一度・・・」なんて思ってる間に、山をやめる羽目になってしまいました。
再開した今ですが、山は人が多すぎる。今、私は地元の奥武蔵の低山を歩き回ってますが、人が多くて叶いません。でも、それでも人が来ない、かつ魅力のあるコースというのはあるんです。最近は、週末が近づくと、そんな貴重なコースの開発のために地図とにらめっこです。
さて、この間の『遺訓』に続いて今回の『蒼き山嶺』にも睡眠時間を奪われてしまいました。年寄りですからね。ダメージがいつまでも残るんですよ。そんなこんなで週末が失われていきました。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
ある日、得丸は、残雪期の白馬鑓ヶ岳を喘ぎながら登る危なげな男に声をかけた。男は池谷博史だった。
・・・もうこれ以上、なんにも言わないほうがいいですよね。なにしろこの本は、その“内容紹介”に《過酷極まる逃避行の行く末は!? 山岳ミステリーの新たな傑作!! 》と書かれているくらいの本ですからね。もう、ハラハラ、ドキドキなわけです。
私は、あなたのハラハラ、ドキドキを奪ったりしません。どうぞ、どうぞ、存分にこのハラハラ、ドキドキを、・・・ご存分に❢
最後にもう一つ、言わせて下さい。
8000m峰14座の無酸素登頂をライフワークにした若林純一は、8座目となるk2に登頂した後、雪崩に飲み込まれて死にました。得丸と池谷が再開する10年前の出来事でした。
・・・うぉっ❢・・・もうなにも言わない。
『蒼き山嶺』 馳星周 光文社 ¥ 1,620 警察から追われ、刺客に狙われながら、男たちは進む。白馬岳から栂海新道を抜けて日本海まで |
「白馬岳から栂海新道を抜けて日本海まで」というこのルート。実は私、正直まったく同じだったか、はっきりしない部分もあるんだけど、このルート歩いています。無雪期ですけど・・・。
学生の時です。日本海から太平洋まで、飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈をフル縦走して歩き通す計画を実行に移しました。飛騨山脈の三俣蓮華までははじめて。木曽山脈で登ってたのは木曽駒と空木岳を単発で登っただけ。赤石山脈も赤石岳から南は知らなかった。そんな状態でした。この本は、上に書いたとおり、これ以上内容紹介しちゃうと申し訳ないので、その時のことでも・・・。
始まりは親不知。海水に触って太平洋を目指そうと思ったら、さすがは親不知、私の周りに、安全に海水に触れられそうな場所はありませんでした。で、そうそうに諦めて登り始めたのですが、いきなりすごい登りだったような気がします。
だけど、この頃は実際良く山に登っていたし、体力ありましたからね。何より今のように、肺気腫の症状なんか出てないからね。とにかく楽しかった。
以前、ブログに書いたことがあるような気もするんですが、その時の試みは赤石山脈の聖だけで頓挫しました。下山する女子大生グループから貰ったベーコンにあたって、聖平小屋のトイレを1つ独占する羽目になってしまったからです。
正直、赤石山脈に入る頃から、身体的に結構厳しい状況になってたんですね。どこかで、何かやめる理由を探していたような、そんなところがあったような気がします。身体が厳しくなければ、食い物に当たるなんてこともなかったと思います。体力以上に気力が果ててしまいました。完全敗退です。
でも、飛騨山脈を歩いている頃は、本当に楽しかった。
白馬までは、めったに人に合わなかったですね。牛首とかキレットとかは、本当にビビった。ビビりながら、思い切って挑んだ。その後、その感覚はだんだん麻痺して行きましたね。全然ってわけじゃないけど、キレットのときのように、硬直することはなくなりました。高度に対する恐怖心ってのは、ある程度は“慣れ”だと思います。
裏銀座を通って槍ヶ岳に行く頃は、だいぶ人も多くなってきました。大キレットを一人で通過するのははじめてでしたが、体調も天候も最良の状況で越えることができました。槍・穂高は、さすがに当時から人が多かったですね。
私の学生時代は以前の登山ブームと新たな登山ブームの間で、山は今に比べれば断然静かだった。山で年配の方を多く見るようになるのは、その数年後だったと思います。
山登りは、そこにあるだけ山というあまりにも大きすぎる存在の中で自分と向き合う行為だと思うんです。だから、できれば一人がいい。この旅の前半、後立山から裏銀座、三俣蓮華から槍ヶ岳までの行程は、だからとても楽しかったですね。
でも、「いつかもう一度・・・」なんて思ってる間に、山をやめる羽目になってしまいました。
再開した今ですが、山は人が多すぎる。今、私は地元の奥武蔵の低山を歩き回ってますが、人が多くて叶いません。でも、それでも人が来ない、かつ魅力のあるコースというのはあるんです。最近は、週末が近づくと、そんな貴重なコースの開発のために地図とにらめっこです。
さて、この間の『遺訓』に続いて今回の『蒼き山嶺』にも睡眠時間を奪われてしまいました。年寄りですからね。ダメージがいつまでも残るんですよ。そんなこんなで週末が失われていきました。


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