邪馬台国『神武天皇VS.卑弥呼』 関裕二
3世紀後半ごろ、近畿中部から瀬戸内海沿岸にかけての地域で古墳が出現した。有力な古墳の多くは、墳丘の形、埋葬施設の構造、副葬品などに強い共通性をもっている。また、とくに巨大な古墳は奈良盆地の多くつくられた。これらのことから、このころに大和の首長たちを中心とする広範囲の政治連合であるヤマト政権が成立したと考えられる。 (実教出版『日本史B 新訂版』) |
これが教科書に書かれた“ヤマト政権の成立”です。ヤマト政権ですからね。初代の神武天皇から数えて125代目が今上天皇陛下ですからね。現在まで続く日本の始まりなわけです。それがこんな事でいいんでしょうか。身も蓋もありませんね。実教の日本史といえば、ものすごい教科書を以前に紹介しましたが、この教科書は、実教とはいえ、まともな方の教科書です。
ちなみに邪馬台国に関しては、けっこう詳しい記述があります。
日本では2世紀の後半に戦乱が続いたので、諸国は共同して卑弥呼と言う女王をたて、3世紀前半には邪馬台国を中心とする約30国からなる連合体を作った。この邪馬台国の勢力は男王が治める狗奴国と対立していた。 卑弥呼は楼観や城柵で守りを固めた宮殿の奥深く住み、呪術を用い、宗教的権威によって政治を行い、弟がこれを補佐した。邪馬台国では・・・ (実教出版『日本史B 新訂版』) |
と、魏志倭人伝に書かれている限りのことが記されている。さらに加えてコラムには、九州説と畿内説について説明され、いずれの説をとるかによってヤマト政権の成立や邪馬台国との関連性に影響が出てくると続く。まるで、邪馬台国論争こそが日本古代史の重大事であるかのように感じさせられる。
だけどそうでしょうか。本当に大事なのは、現在の日本につながるヤマト政権成立の背景を明らかにすることですよね。
『神武天皇VS.卑弥呼』 関裕二 新潮社 ¥ 時価 「縄文ネットワーク」と「海の民」の正体とは? ヤマト建国を推理する |
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実は、本当に大事なことは邪馬台国がどうしたかではなくて、ヤマト政権の成立について明らかにすることだということは、本書の“はじめに”にも書かれています。『魏志』に書かれた倭人伝を現状よりもさらに解読することは、おそらく不可能でしょう。でも、日本書紀にあたり直して、ヤマト建国の経緯をはっきりさせることはできると、それが著者の立ち位置ですね。
縄文から弥生への移り変わりは、教科書には今でも前4世紀と書かれています。追記して、新たな研究によれば前8世紀までさかのぼれるとする説もあると説明します。でも今や、弥生の始まりは前10世紀後半までさかのぼれるといいます。
それを前4世紀としている頃は、北九州に伝えられると、ほぼ同時に東北南部まで及んだとされてましたね。でも今は、前10世紀頃から弥生文化は徐々に受け入れられ、かなりの期間、縄文文化の道具類と同居していたということもわかってるんだそうです。つまり、渡来人渡来人が先住民を圧倒して日本列島を一気に弥生文化で塗り替えていったのではないんですね。そうではなく、先住の縄文人たちが渡来人の持ち込んだ稲作を選択し、取り入れていったわけです。
ところが弥生時代が進行し、戦いの時代に突入した。地域ごとの連合体が形成され争いあっていた。
ヤマト政権が成立する直前、鉄を独占した北九州が突出した力をもって、他の勢力を睥睨していた。その勢力が強大な軍事力を擁して東を制圧したと考えられてきた。
しかし、纏向遺跡の発掘が進むと、ヤマト建国の地に九州の影響がほとんどないのが分かってきたんだそうだ。ヤマト建国は、最大勢力にして鉄を独占する北九州抜きで成し遂げられたことなのか。
・・・そんなこと言われると、なんか血がたぎりませんか。私なんか“はじめに”を読んだだけでこんなに暑くなってるんですよ。本当に安上がりな男でしょ。
じゃ、また、本編を読んだら、全体の紹介を書かせてもらいますね。


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