『神武天皇VS.卑弥呼』 関裕二
建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南海なり。光武、賜ふに印綬を以てす。安帝の永初元年、倭の国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う。桓・霊の間、倭国大いに乱れ、更々相攻伐して歴年主なし。 (『後漢書』東夷伝) |
奴国は羽振りが良かったんでしょうね。なにしろ光武帝から印綬を授かってるんですからね。あの後漢、光武帝が後ろ盾ですよ。ただ、後ろ盾を以って自らの立場を確保したものは、後ろ盾がなくなるときびしいですね。としても、180年頃に黄巾の乱が始まるので、まあ150年くらいまでは、その御威光を利用で来たんじゃないでしょうか。・・・なにも根拠はありませんけど。
その奴国王が光武帝から賜わった印綬、金印として江戸時代に発見されてますね。発見されたのが福岡県福岡市の志賀島。しかも、なんでもない石の下から発見されたっていう不自然さ。いったい何があったんでしょう。 | ![]() |
この本の中で著者は、ヤマト政権の成立と海の勢力のかかわりを強調しています。さて、そう考えてみると、ヤマト政権を立ち上げたとされる神武天皇ですが、おじいちゃんが山幸彦ですね。山幸彦は海幸彦との確執から、海に入って海神にあい、その娘である豊玉姫と結ばれます。二人の子供のウガヤフキアエズは豊玉姫の妹の玉依姫と結ばれて神武が生まれるわけです。
『神武天皇VS.卑弥呼』 関裕二 新潮社 ¥ 時価 「縄文ネットワーク」と「海の民」の正体とは? ヤマト建国を推理する |
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やはり、神武の背景には海の勢力があるのは間違いないですね。海の神のことをワタツミと言いますが、漢字で書くと“綿津見”という書き方があるそうです。その“綿津見神”を祖先神として祀っていたのは阿曇氏という一族のようなんです。さらに、阿曇氏の発祥は、筑前国糟屋郡阿曇郷。祀ってきた神社が志賀島の志賀島神社。
どうも、そういうことになると、この阿曇氏こそが奴国王の一族ということになるでしょうか。“当たらずとも遠からず”ってことは確かでしょう。
その名前で話題になるのは、長野県の安曇野でしょうね。海の一族が山の国にその名を残しているってのも面白いところですが、実際に阿曇氏は六世紀から7世紀にかけて、ここに移住してきているんだそうです。穂高神社は阿曇氏が祀った神社だとか。
海の一族は造船のために巨木を求め、また川を船で往来することも彼らの生活の一部だったそうです。たしかに海を持たない長野県ですが、木材は豊富で、川で船を引く馬もいます。それから長野県って、八つもの県に隣接してるんですよね。つまり、ひと山越えればどこにでも出られるってことです。もちろん、船で・・・。天竜川を下って太平洋、千曲川・信濃川経由で日本海、ひと山越えれば荒川を下って東国にも出られます。
そんな話題が出てくることはあるが、たしかに阿曇氏が、ヤマト政権の成立に関わったという話は聞いたことがありませんね。著者は、それは「業績を奪い取られたから」といいます。さらには、「正体を消し去られた」ともいいます。
もし日本書紀の中でそんなことが本当に行われているなら、それを行ったのは、この日本書記が編纂されたときの権力者ということになりますよね。つまり、藤原不比等です。
・・・また、藤原氏かよ。
「・・・かよ」なんて言ってる立場じゃないんですけどね。著者は、おそらくご自分のことも含めていろんな都合から、一つのことを品を変え、角度を変えて本にしてくれてます。おかげで私のような素人にも、「・・・かよ」なんて言えるほど、日本古代史における藤原氏の重要性を理解できて来たのかもしれません。


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