『日本統治下の朝鮮』 木村光彦
1910年から1945年まで、帝国日本の植民地となった朝鮮。その統治は、政治的には弾圧、経済的には搾取・貧困化という言葉で語られてきた。日本による統治に多くの問題があったのは確かである。だが、それは果たして「収奪」一色だったのか。その後の韓国の発展、北朝鮮の社会主義による国家建設との繋がりはないのかー。本書は、論点を経済に絞り、実証主義に徹し、日本統治時代の朝鮮の実態と変容を描く。 |
これが本書の謳い文句です。私、ずいぶん昔に、おんなじ題名の本を読んだことがあるんです。“あるはずだ”と思って、じつは昨日も押入れに潜ったんですね。でも、ありませんでした。
忘れてたんですが、昔に読んだ本は、ずいぶん捨てたんです。本を捨てたということに、どうのこうのと思われるかもしれませんが、現実的に置き場所がありませんからね。今の状況だって、集中豪雨後の河川みたいなもんで、どこか一箇所でも堤が切れれば元の状況に復旧するのは不可能。私は本を詰めた風呂敷をいくつか抱えて旅に出ることになるんです。
残念ながら見つからなかったおんなじ題名の本のことが、この本に書かれてました。《山辺健太郎著『日本統治下の朝鮮』》という本で、1971年に刊行されたものでした。
《この本は政治、経済の両面から朝鮮を論じたもので、名著とされ、今日まで読みつがれてきた(現在は品切れ)。著者の山辺は共産主義思想の持ち主で、戦時中は獄中にいた。戦後は日本共産党本部に勤務し、のち朝鮮に関する著述活動に従事した。この経歴が示唆するように、この本は終始、日本の朝鮮統治を激烈に批判している。批判の中にはもちろん、同意すべきものもある。とくに、朝鮮人の民族的尊厳をそこなう諸政策や一九四〇年台の総力戦遂行政策はそうであろう。しかしこの本は、山辺の思想にもとづく「はじめに結論ありき」の性格が強く、内容的に著しくバランスを欠く》
これは、今日ここで紹介している『日本統治下の朝鮮』 の著者である木村光彦さんの語るところです。おそらく私がそれを読んだのは、二十歳かそこら、学生時代のことだったと思います。そんな“バランスを欠く”内容を、冷静に感じ取ることさえ、当時の私にはできませんでした。
『日本統治下の朝鮮』 木村光彦 中央公論新社 ¥ 864 経済に絞り、実証主義に徹し、日本統治時代の朝鮮の実態と変容を描く |
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日本の左巻きの人は、なぜが朝鮮に入れあげる。若い頃の私も、頭が良さそうなふりを装って朝鮮に入れあげた。山辺健太郎さんという共産主義者同様、“著しくバランスを欠く”人間だったんですね。
今、紹介している『日本統治下の朝鮮』 の著者である木村光彦さんは、“著しくバランスを欠いた”山辺健太郎さんが書いた『日本統治下の朝鮮』 のようにではなく、共産主義的、または朝鮮に入れ込んだ反日的イデオロギーを排し、実証主義に徹した朝鮮論を世に出したいとのことだった。
読んで見れば、あまりにも冷静に書かれたその内容は、ほとんど政府刊行の“白書”に近いような気がします。そのくらい見事にイデオロギーを排して、残されているデータを徹底的に検証して、その上に書かれているからそう思うのでしょう。
その上で、もともと日本による朝鮮の領有は、ヨーロッパ諸国のそれのように経済的理由からなされたものではなく、“すぐれてせ政治的動機”に基づいて行われたものであると結論づけています。つまり、安全保障にあったということです。その点に関して、日本は、比較的に低コストで、安全保障を動機とする朝鮮の領有を達成したとしている。
あとは、アメリカに負けたりしなければ問題なかったわけですね。
私は、この木村光彦さんも、日本に厳しすぎると思います。極刑の課された日本を弁護するにおいて、“たとえ悪く見積もっても極刑には当たらない”と言いたいためでしょうか。
“日本による統治に多くの問題があったのは確かである”とおっしゃるが、では、問題のない植民地統治とはいったいなんだったのでしょうか。植民地支配そのものが悪であるとして思考を停止するなら、歴史の探求はなにも前には進みません。答えはないですね。日本は、かつてその答えを出そうとしていたのではないでしょうか。答えを出す前に、アメリカとの戦争に負けてしまいましたからね。


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