『山の霊異記 ケルンは語らず』 安曇潤平
《鈴の音》っていう話がありましたね。最近の熊鈴はとてもよく響きますよね。ずいぶん遠くからでも聞こえるんですよね。あれ、・・・けっこう怖いです。
奥多摩を歩いている時、たしか高水山から岩茸石山に向かう途中、岩茸石山への登りが始まる鞍部のところで休憩していたんです。すると、チリーンという小さな鈴の音が聞こえてきて、誰かがこちらに向かってきているのが分かったんですね。これから始まる登り、実際に登ってみたらたいしたことなかったんですけど、この時はまだそれを知りませんでした。だから、先に行ってもらおうと思って、鈴の音の人がやって来るのを待ったんですね。
チリーン・チリーン
その音は確かにやって来ているんです。もう、ほら、その藪の後ろからその鈴をザックにつけた人がいまにも姿を現しそうなんです。なのに、来ない。
チリーン・チリーン
もう、この近さは異常。すでに姿が見えるところにその人はいるはず。
チリーン・チリーン
うわ~っと、叫びだしそうになる寸前、鈴の人は姿を現しました。「こんにちは」
ちょっと、いい音が遠くまで響きすぎです。


安曇潤平さんの本が大好きで、新しいのが出るのを楽しみにしています。
私も山に登りますが、だいたい一人です。土日の休日に行くなら、人があまり行かなそうなところを選びます。人気の山に登るなら、断然平日に休みを取って登ります。だから、自然と山の中を一人で歩いていることが多いです。一人で山の中を歩いていても、そんなときに安曇さんの本の話を思い出すことはほとんどありません。山と向き合って、自分と向き合って、ひたむきに歩いています。
でも、安曇ファンであるとかないとかに関係なく、突然、何か嫌な感じを抱くことはありますね。ついつい後ろを振り返って確認したくなるようなことが、やはりありますね。
おそらくそれは、場所によるんだと思っています。本当に何気ない道なんですけどね。私の領域の奥武蔵の中でいうと、鎌北湖の周辺の道で、宿谷滝から北向き地蔵の間の山の中の道です。ほんの15分ほどで通り抜けてしまうくらいの道ですが、ここ1年半のうちに3度通って、3度とも違和感を感じて振り返りました。3度も体験するとそれなりの理解も進んで、その場所のものはそう感じさせるだけで、それ以上に立ち入っては来ないような気がします。
いつもはそんな感じはない道でそうなることもありますが、時間帯や天候が関係しているんでしょうか。そんな嫌な感じが起こりやすい時間帯や天候があるんでしょうね。
私はまったく素質がないわけではないんです。私の祖母がカリスマ性の強い人で、私も祖母の近くに住んでいるときは、いろいろなものを感じました。祖母から離れて生活するようになってからは、それも20歳を過ぎてからは、ほとんど感じることもなくなりましたね。山に行ったときを除いてはね。
山に再び登れるようになったのは2016年に手術を受けてからですから、20数年間にわたって、そういうものとは無縁の生活を送ってきたんですね。そのせいでしょうね。一人で山を歩く緊張感がとても新鮮です。
山の中に、人の生活の跡を見つけることが良くあります。ここの人は、山から下りたんですね。墓もあります。おそらくもう、手を合わせに来る人もいないだろうと思えるものもありますね。だからといって、そういう場所だから何かを感じるというのとも違うような気がします。何か感じる場所っていうのは、なにか陰にこもってしまうような場所ということなんでしょうか。
《ケルンは語らず》と名づけられたこのシリーズも、面白く読ませていただきました。私として、『足』は怖かったですね。この話の舞台となった八峰キレット。若いころに越えましたが、キレット小屋についた時は、自然と涙が流れました。それから、『戸惑いの結末』ですね。やはりこの結末はとまどいます。この後どうしたのか、責任とって書いてほしかったですね。
どうぞ、山に向かう夜行列車の中で読まれてはいかがでしょうか。・・・その時は、窓に映る自分の顔を見てはいけません。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
奥多摩を歩いている時、たしか高水山から岩茸石山に向かう途中、岩茸石山への登りが始まる鞍部のところで休憩していたんです。すると、チリーンという小さな鈴の音が聞こえてきて、誰かがこちらに向かってきているのが分かったんですね。これから始まる登り、実際に登ってみたらたいしたことなかったんですけど、この時はまだそれを知りませんでした。だから、先に行ってもらおうと思って、鈴の音の人がやって来るのを待ったんですね。
チリーン・チリーン
その音は確かにやって来ているんです。もう、ほら、その藪の後ろからその鈴をザックにつけた人がいまにも姿を現しそうなんです。なのに、来ない。
チリーン・チリーン
もう、この近さは異常。すでに姿が見えるところにその人はいるはず。
チリーン・チリーン
うわ~っと、叫びだしそうになる寸前、鈴の人は姿を現しました。「こんにちは」
ちょっと、いい音が遠くまで響きすぎです。
『山の霊異記 ケルンは語らず』 安曇潤平 KADOKAWA ¥ 1,404 山でしか起こり得ない人と人の出会い、生きる者と死者の思いをつなぐもの |
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安曇潤平さんの本が大好きで、新しいのが出るのを楽しみにしています。
私も山に登りますが、だいたい一人です。土日の休日に行くなら、人があまり行かなそうなところを選びます。人気の山に登るなら、断然平日に休みを取って登ります。だから、自然と山の中を一人で歩いていることが多いです。一人で山の中を歩いていても、そんなときに安曇さんの本の話を思い出すことはほとんどありません。山と向き合って、自分と向き合って、ひたむきに歩いています。
でも、安曇ファンであるとかないとかに関係なく、突然、何か嫌な感じを抱くことはありますね。ついつい後ろを振り返って確認したくなるようなことが、やはりありますね。
おそらくそれは、場所によるんだと思っています。本当に何気ない道なんですけどね。私の領域の奥武蔵の中でいうと、鎌北湖の周辺の道で、宿谷滝から北向き地蔵の間の山の中の道です。ほんの15分ほどで通り抜けてしまうくらいの道ですが、ここ1年半のうちに3度通って、3度とも違和感を感じて振り返りました。3度も体験するとそれなりの理解も進んで、その場所のものはそう感じさせるだけで、それ以上に立ち入っては来ないような気がします。
いつもはそんな感じはない道でそうなることもありますが、時間帯や天候が関係しているんでしょうか。そんな嫌な感じが起こりやすい時間帯や天候があるんでしょうね。
私はまったく素質がないわけではないんです。私の祖母がカリスマ性の強い人で、私も祖母の近くに住んでいるときは、いろいろなものを感じました。祖母から離れて生活するようになってからは、それも20歳を過ぎてからは、ほとんど感じることもなくなりましたね。山に行ったときを除いてはね。
山に再び登れるようになったのは2016年に手術を受けてからですから、20数年間にわたって、そういうものとは無縁の生活を送ってきたんですね。そのせいでしょうね。一人で山を歩く緊張感がとても新鮮です。
山の中に、人の生活の跡を見つけることが良くあります。ここの人は、山から下りたんですね。墓もあります。おそらくもう、手を合わせに来る人もいないだろうと思えるものもありますね。だからといって、そういう場所だから何かを感じるというのとも違うような気がします。何か感じる場所っていうのは、なにか陰にこもってしまうような場所ということなんでしょうか。
《ケルンは語らず》と名づけられたこのシリーズも、面白く読ませていただきました。私として、『足』は怖かったですね。この話の舞台となった八峰キレット。若いころに越えましたが、キレット小屋についた時は、自然と涙が流れました。それから、『戸惑いの結末』ですね。やはりこの結末はとまどいます。この後どうしたのか、責任とって書いてほしかったですね。
どうぞ、山に向かう夜行列車の中で読まれてはいかがでしょうか。・・・その時は、窓に映る自分の顔を見てはいけません。


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