『分水嶺』 笹本稜平
“田沢”の分水嶺がオオカミに出合ったことであるとしたら、私の分水嶺は、・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
山の本は避けていたので、二十年以上避けていたので、読みだしてみると、いくらでも読むものがあってうれしいです。読み始めは、手術を受けた後の病院のベッドの上でした。手術を受けたら足が良くなると決めてました。また、山に登れるようになるって決めつけてました。手術以前に書いたブログを読むと、《そんなにうまくいくもんじゃないってことは分かってる》っていうようなことを書いてるんだけど、《良くなる》って思わないと、痛みに耐える気力もわかないですからね。
私の連れ合いは、「本当によくなったんだね」って言って驚いてます。連れ合いの幼馴染も、実は同じ手術を受けているのですが、いろいろと違いはあるんでしょうけど、私のように痛みもなくなり、平気で山登りができるって状況にはなっていないらしいんです。
他の話を聞いてみても、日常生活に不自由はしないというところまでの方が多いらしいんですね。手術前の私の、《良くなる》、《山に登る》ってのは、高望みの部類だったみたいです。・・・まあ、良かったですね。あれで、「治るには治ったけど・・・」って話だったら、私のことだから落ち込みは激しかったと思います。
病院のベッドで読んだのは、夢枕獏の『神々の山稜』です。この本が売れてるってことは知ってましたけど、山に登る目安もないのに山の本を読むのはむなしいですから、読んでませんでした。この時は、手術の傷跡が痛むベッドの上で、山に登る気満々で読みました。
読みだしてみると、ずいぶん山の本から離れていた分、読む本に苦労しません。たまたま出合った山の本を読んで、その作家さんの本をさかのぼって読んだり、また新しい作品を読んだりを繰り返しているのが現状です。しばらくは、ふと思い立ったときに、こちらの都合で山の本を読むことができそうです。
ただ、出てくるのがみんな一流の登山家のみなさんですから、それが困りものです。8000m級の垂直の壁で命スレスレの登攀を試みる様子を、病院のベッドで読んでるわけですから。翌日は、まだリハビリの先生からは止められているのに、病院の階段を登ってしまいました。
還暦を間近にした歳ですから、遅ればせながらということになりますが、手術を受けたことが、私の分水嶺です。


舞台となるのは冬の東大雪山系の手つかずの大自然。そこで、すでに絶滅したとされるエゾオオカミがそこで生き残っている痕跡を追いかけている男がこの物語を引き回していきます。物語は、人間と自然の関わりを、真っ向から取り扱っていきます。
西洋文明に促されて近代的発展を遂げた日本では、やはり人間は自然と向き合う位置に立って、これを屈服させてきました。西洋では、環境問題の取り組み方も、結局、自然に対して向き合って考えていきます。一度は屈服させた自然を、同じ位置に立って、今度は足下に保護すべき対象と見なしているに過ぎないように感じられます。屈服させるにしても、保護するにしても、彼らの活動は、人間は自然に超越してしまってます。
西洋文明のもとに成立した現代文明ではありますが、その行き詰まりは明らかです。その行き詰まりを見つめようともせず、話を地球温暖化にそらせて時間稼ぎをしているように感じさせられる昨今です。それでも、必ず、現代文明の行き詰まりに直面する日はやってきます。環境問題として取り上げても、自然を足下に保護すべき対象と見るならば、人間はこの行き詰まりを突破することはできないでしょう。
やはり、《人間は自然の一部》という視点を持たなければ・・・。
《人間は自然の一部》。オオカミは常に、人間にそれを意識させてくれていた。かつて日本人はそういった観念のもとに生きてきた。そういう、かつての日本人の、自然とのかかわり方の中に、新しい人間と自然の関わり方のヒントが、・・・あればいいんですけどねぇ。
《事件もの》として話が進んでいく場面も多かったのですが、第九章から最終第十二章までの、冬の東大雪山系で、主人公らが二つ玉低気圧に見舞われながらクライマックスに突入していく様子は圧巻です。そこにもこの本の主題であるオオカミの存在が関わってくるのです。目が離せないばかりではなく、いつの間にか雪崩の恐怖の中に息苦しさまで感じさせられました。事実、本当に呼吸が小さくなっていたのです。
物語はそのまま、人間の尊厳そのものを感じさせるラストに向かっていきます。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
山の本は避けていたので、二十年以上避けていたので、読みだしてみると、いくらでも読むものがあってうれしいです。読み始めは、手術を受けた後の病院のベッドの上でした。手術を受けたら足が良くなると決めてました。また、山に登れるようになるって決めつけてました。手術以前に書いたブログを読むと、《そんなにうまくいくもんじゃないってことは分かってる》っていうようなことを書いてるんだけど、《良くなる》って思わないと、痛みに耐える気力もわかないですからね。
私の連れ合いは、「本当によくなったんだね」って言って驚いてます。連れ合いの幼馴染も、実は同じ手術を受けているのですが、いろいろと違いはあるんでしょうけど、私のように痛みもなくなり、平気で山登りができるって状況にはなっていないらしいんです。
他の話を聞いてみても、日常生活に不自由はしないというところまでの方が多いらしいんですね。手術前の私の、《良くなる》、《山に登る》ってのは、高望みの部類だったみたいです。・・・まあ、良かったですね。あれで、「治るには治ったけど・・・」って話だったら、私のことだから落ち込みは激しかったと思います。
病院のベッドで読んだのは、夢枕獏の『神々の山稜』です。この本が売れてるってことは知ってましたけど、山に登る目安もないのに山の本を読むのはむなしいですから、読んでませんでした。この時は、手術の傷跡が痛むベッドの上で、山に登る気満々で読みました。
読みだしてみると、ずいぶん山の本から離れていた分、読む本に苦労しません。たまたま出合った山の本を読んで、その作家さんの本をさかのぼって読んだり、また新しい作品を読んだりを繰り返しているのが現状です。しばらくは、ふと思い立ったときに、こちらの都合で山の本を読むことができそうです。
ただ、出てくるのがみんな一流の登山家のみなさんですから、それが困りものです。8000m級の垂直の壁で命スレスレの登攀を試みる様子を、病院のベッドで読んでるわけですから。翌日は、まだリハビリの先生からは止められているのに、病院の階段を登ってしまいました。
還暦を間近にした歳ですから、遅ればせながらということになりますが、手術を受けたことが、私の分水嶺です。
『分水嶺』 笹本稜平 祥伝社文庫 ¥ 864 厳冬の大雪山で幻のオオカミを探す二人の男の魂を描く 笹本稜平、新しい代表作 |
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舞台となるのは冬の東大雪山系の手つかずの大自然。そこで、すでに絶滅したとされるエゾオオカミがそこで生き残っている痕跡を追いかけている男がこの物語を引き回していきます。物語は、人間と自然の関わりを、真っ向から取り扱っていきます。
西洋文明に促されて近代的発展を遂げた日本では、やはり人間は自然と向き合う位置に立って、これを屈服させてきました。西洋では、環境問題の取り組み方も、結局、自然に対して向き合って考えていきます。一度は屈服させた自然を、同じ位置に立って、今度は足下に保護すべき対象と見なしているに過ぎないように感じられます。屈服させるにしても、保護するにしても、彼らの活動は、人間は自然に超越してしまってます。
西洋文明のもとに成立した現代文明ではありますが、その行き詰まりは明らかです。その行き詰まりを見つめようともせず、話を地球温暖化にそらせて時間稼ぎをしているように感じさせられる昨今です。それでも、必ず、現代文明の行き詰まりに直面する日はやってきます。環境問題として取り上げても、自然を足下に保護すべき対象と見るならば、人間はこの行き詰まりを突破することはできないでしょう。
やはり、《人間は自然の一部》という視点を持たなければ・・・。
《人間は自然の一部》。オオカミは常に、人間にそれを意識させてくれていた。かつて日本人はそういった観念のもとに生きてきた。そういう、かつての日本人の、自然とのかかわり方の中に、新しい人間と自然の関わり方のヒントが、・・・あればいいんですけどねぇ。
《事件もの》として話が進んでいく場面も多かったのですが、第九章から最終第十二章までの、冬の東大雪山系で、主人公らが二つ玉低気圧に見舞われながらクライマックスに突入していく様子は圧巻です。そこにもこの本の主題であるオオカミの存在が関わってくるのです。目が離せないばかりではなく、いつの間にか雪崩の恐怖の中に息苦しさまで感じさせられました。事実、本当に呼吸が小さくなっていたのです。
物語はそのまま、人間の尊厳そのものを感じさせるラストに向かっていきます。


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