『凍』 沢木耕太郎
お暑うございます。こう暑いとどうにもなりませんね。
もうずいぶん前の話ですけど、『八甲田山死の彷徨』が映画化されて、けっこう当たりましたよね。あれ、たしか真夏の封切りだったはずです。あのときも暑い夏で、そんなときに冬の八甲田で遭難する話ですからね。どんなもんかと思われていたようですが、それが大当たりでした。だったらこんな暑い夏、『凍』なんかどうでしょうか。
本当に、寒いし、痛いし、酸素が薄くて息苦しいし、なにより読んでいて怖いよ。
表紙の装丁が見事ですね。読んだ今だからこそ、そう思います。緒方修一さんの装幀だそうで、装幀倶楽部と言うところにのってるコメントには『飾り気がなくシンプル。それが逆に「凍」の一文字を、目に焼きつかせるような強さがある』とあります。焼き付けられた《凍》の文字が、山野井夫妻の激闘の過酷さを伝えているようです。激闘と言えば熱を帯びそうなものですが、この戦いは、あまりにも冷たいです。
山野井泰史と言う人は、やはり違う。子どもの頃、母に通わせられた水泳や剣道、あるいは一緒に友達と遊んでいても、どこか満たされていないという気持ちを持ち続けていたんだそうです。“危険”に対する捉え方が違うようです。高いところから飛び降りたり、ぶら下がってみたり、そんなことに引かれたそうです。
そんな指向の先に、“クライミング”があったんですね。
橘玲さんの『言ってはいけない』に「心拍数の低い人は犯罪に走りやすい」っていうのがありました。三つの理由が上げられていました。第一が、心拍数の低い人は不安やストレスを感じにくく、通常のレベルでは恐怖感を抱かない。第二は、心拍数の低い人は共感力が弱く他人の痛みを理解できない。第三は、心拍数の低い人は覚醒度が低いため、覚醒レベルを上げるために強い刺激を求める。
と言うことなんですが、第二の理由は分かりずらいですけど、第一、第三の理由は、そのままクライミングの資質にもなりえるように感じました。特に、第一は奥様の山野井妙子さんに、第三は山野井泰史さんに該当するように感じました。第二の理由に関しては、お二人ともむしろ共感力が高く、とくに妙子さんに関しては通常のレベル以上に共感力が高い方のように感じました。


ドキュメントですからね。ノンフィクションなわけです。この、『凍』に書かれていることは。いや、ノンフィクションということは、この本に書かれていることは、あらかた本当にあったことというわけです。本当に、山野井泰史、山野井妙子という夫婦がギャチュンカンというとんでもない山に登って、とんでもない事態におちいりながら、上記のような才能と、鍛えられた技能と体力で乗り越え、ぎりぎりの生還を果たしたということです。
しかし、『凍』には、山野井泰史、山野井妙子という人間そのものが書かれているわけです。そこに書かれた山野井泰史、山野井妙子と言う人間は、著者の沢木耕太郎さんの文による人物なわけですね。
その文が、人間としての山野井泰史、山野井妙子を描き切らないと、文の中の山野井泰史、山野井妙子はとてつもないことをやり遂げた人物として躍動しません。
しかし、文の中の山野井泰史、山野井妙子は、見事に躍動しています。だから私は、本当に、寒いし、痛いし、酸素が薄くて息苦しいし、なにより読んでいて怖かったんです。なにしろ私は、心拍数が低くないので不安やストレスにさいなまれやすく、いとも簡単に恐怖心に取り付かれてしまうんです。おまけに通常の状態で十分覚醒していますから、ちょっとした刺激にする心がかき乱されます。
ただし心が弱いので、これまで何度、人の道を踏み誤ったことでしょう。
それはともかく、文の中の山野井泰史、山野井妙子は十分に躍動し、私を7000mの壁の絶望を味わわせてくれました。
凍傷によるハンデキャップはものすごく大きいものでしょうね。自分の体の一部を失うのですから当然です。だけど、やっぱりそれを前提として、二人は次の山に挑むんですね。
解説を書いている池澤夏樹さんは、かつて植村直己を論じた文章に「再び出発する者」という題をつけ、「山野井泰史と妙子もまた再び出発するものである」と言っています。
恥ずかしながら、・・・私も、再び出発します。どこまで行けるかは、問題じゃないんですよね。・・・でも、寒いのはいやだな。痛いのも、息苦しいのも、さらには怖いのなんて絶対嫌だな。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
もうずいぶん前の話ですけど、『八甲田山死の彷徨』が映画化されて、けっこう当たりましたよね。あれ、たしか真夏の封切りだったはずです。あのときも暑い夏で、そんなときに冬の八甲田で遭難する話ですからね。どんなもんかと思われていたようですが、それが大当たりでした。だったらこんな暑い夏、『凍』なんかどうでしょうか。
本当に、寒いし、痛いし、酸素が薄くて息苦しいし、なにより読んでいて怖いよ。
表紙の装丁が見事ですね。読んだ今だからこそ、そう思います。緒方修一さんの装幀だそうで、装幀倶楽部と言うところにのってるコメントには『飾り気がなくシンプル。それが逆に「凍」の一文字を、目に焼きつかせるような強さがある』とあります。焼き付けられた《凍》の文字が、山野井夫妻の激闘の過酷さを伝えているようです。激闘と言えば熱を帯びそうなものですが、この戦いは、あまりにも冷たいです。
山野井泰史と言う人は、やはり違う。子どもの頃、母に通わせられた水泳や剣道、あるいは一緒に友達と遊んでいても、どこか満たされていないという気持ちを持ち続けていたんだそうです。“危険”に対する捉え方が違うようです。高いところから飛び降りたり、ぶら下がってみたり、そんなことに引かれたそうです。
そんな指向の先に、“クライミング”があったんですね。
橘玲さんの『言ってはいけない』に「心拍数の低い人は犯罪に走りやすい」っていうのがありました。三つの理由が上げられていました。第一が、心拍数の低い人は不安やストレスを感じにくく、通常のレベルでは恐怖感を抱かない。第二は、心拍数の低い人は共感力が弱く他人の痛みを理解できない。第三は、心拍数の低い人は覚醒度が低いため、覚醒レベルを上げるために強い刺激を求める。
と言うことなんですが、第二の理由は分かりずらいですけど、第一、第三の理由は、そのままクライミングの資質にもなりえるように感じました。特に、第一は奥様の山野井妙子さんに、第三は山野井泰史さんに該当するように感じました。第二の理由に関しては、お二人ともむしろ共感力が高く、とくに妙子さんに関しては通常のレベル以上に共感力が高い方のように感じました。
『凍』 沢木耕太郎 新潮文庫 ¥ 680 絶望的状況下、究極の選択。鮮かに浮かび上がる奇跡の登山行、ノンフィクションの極北 |
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ドキュメントですからね。ノンフィクションなわけです。この、『凍』に書かれていることは。いや、ノンフィクションということは、この本に書かれていることは、あらかた本当にあったことというわけです。本当に、山野井泰史、山野井妙子という夫婦がギャチュンカンというとんでもない山に登って、とんでもない事態におちいりながら、上記のような才能と、鍛えられた技能と体力で乗り越え、ぎりぎりの生還を果たしたということです。
しかし、『凍』には、山野井泰史、山野井妙子という人間そのものが書かれているわけです。そこに書かれた山野井泰史、山野井妙子と言う人間は、著者の沢木耕太郎さんの文による人物なわけですね。
その文が、人間としての山野井泰史、山野井妙子を描き切らないと、文の中の山野井泰史、山野井妙子はとてつもないことをやり遂げた人物として躍動しません。
しかし、文の中の山野井泰史、山野井妙子は、見事に躍動しています。だから私は、本当に、寒いし、痛いし、酸素が薄くて息苦しいし、なにより読んでいて怖かったんです。なにしろ私は、心拍数が低くないので不安やストレスにさいなまれやすく、いとも簡単に恐怖心に取り付かれてしまうんです。おまけに通常の状態で十分覚醒していますから、ちょっとした刺激にする心がかき乱されます。
ただし心が弱いので、これまで何度、人の道を踏み誤ったことでしょう。
それはともかく、文の中の山野井泰史、山野井妙子は十分に躍動し、私を7000mの壁の絶望を味わわせてくれました。
凍傷によるハンデキャップはものすごく大きいものでしょうね。自分の体の一部を失うのですから当然です。だけど、やっぱりそれを前提として、二人は次の山に挑むんですね。
解説を書いている池澤夏樹さんは、かつて植村直己を論じた文章に「再び出発する者」という題をつけ、「山野井泰史と妙子もまた再び出発するものである」と言っています。
恥ずかしながら、・・・私も、再び出発します。どこまで行けるかは、問題じゃないんですよね。・・・でも、寒いのはいやだな。痛いのも、息苦しいのも、さらには怖いのなんて絶対嫌だな。


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