にっぽん『古代史から読み解く「日本」のかたち』 倉本一宏 里中満智子
《わ》って呼ばれてたんですよね。
私、ブログの中で、“シナ”っていう名称使ってて、「そのまんまでいいかなぁ」って思ってたんですけど、なんかいろんな本とか読んでても、中国が圧倒的ですね。ついつい弱気が出て、私も最近、“中国”ってしてるんです。ダメですねぇ。
“シナ”の語源は最初の統一王朝である秦ですよね。インドに入って“シナ”、巡り巡って英語で“チャイナ”でしょ。支那の字が悪ければ、カタカナで“シナ”でどうでしょう。悪い字通りのイメージを“シナ”に感じるっていうんなら、やっぱり考える余地があるかと思ったんです。でも、あっちこっちに悪い字を当ててきたのは“シナ”の方ですし。
そうそう、あっちこっちから持ち込まれた音に獣偏とか虫偏とかをあてたわけですけど、《わ》もやはり、こちらからあちらに持ち込んだ音なわけですよね。それに《倭》という字をあてられて、みずからも《倭》と名のったわけです。やがて、《ヤマト》という政権が誕生してからも、自分たちには《わ》の一員であるという意識があるから、“中国”に対しては《倭》と書いて、《ヤマト》と名のったわけです。
その《ヤマト》の音をあらわすのに《大和》という字をあてたのは、やはり《倭》に侮蔑的な意味があることを知ったからなんでしょうね。そして、その時、自分たちの政権をもっとも的確に表す字を選んで、《大和》にしたんじゃないでしょうか。
以前、なんかの本で読んだんだけど、《わ》は“わっか”の《わ》じゃないかって。弥生時代に入ると水稲農業の発展によって人口が増加し、土地を巡って、あるいは富を巡っての戦いが発生し、人々は武装するとともに、自分たちの領域を守るための様々な工夫をしていきます。その中の一つに、集落の周辺に深い堀をめぐらす環濠集落があります。環濠の“わっか”の《わ》じゃないかという説です。
でも、これだと、《わ》が表す領域はとても狭いですよね。敵対する勢力だって環濠集落を形成しただろうし。だから、《わ》という言葉は、弥生よりも古い、縄文の記憶に由来するものじゃないでしょうか。だからこそ、《ヤマト》を漢字表記するとき、その漢字の読みにこだわらず、あえて《わ》という音にこだわって、“和”という字を使ったんじゃないでしょうか。


大宝2(702)年の遣唐使は、天智天皇8(669)年以来、33年ぶりの派遣です。
天智・鎌足政権は改革抵抗勢力を利用して蘇我入鹿をクーデターによって排除し、その後も改革抵抗勢力を巧妙に利用しながら権力を握ったものと考えています。権力の掌握が目的ですから、その後の政治は改革色を打ち出したとしても、実際に改革を本格化させたのは天武政権だったと考えています。つまり、この時期に、唐に対して、国家の体裁を整えていったということです。
そしてこのとき、唐に対して、初めて《日本》という国号を使ってるんですね。唐とは言っても、この時は則天武后の周になっていたそうですが、先方との間で「なぜ国の名前が変わったか」と問答になって、粟田真人が「倭国は字の意味が良くないので日本に変えた」と説明しているんです。
国内的には、《日本》と書いて《ヤマト》と読むケースも少なくなかったみたいですね。ヤマトは、ムサシやシナノと同じように、本来は地域名でしょう。そこを中心に成立した連合政権を大和政権と読んだんでしょうけど、国家規模が拡大すれば、それに地域名を当てたままにするのは、むしろ不自然でしょう。・・・ローマは地中海を内海とするほど拡大してもローマですけどね。
それを《にほん》と読むか、《にっぽん》と読むかという問題もありますね。この本でもそのことを扱ってました。この本では《にっぽん》としています。ただ、仮名には「っ」や「゜」がなかったから、《にほん》と書いて《にっぽん》と読んだんだそうです。その間に、《にほん》という呼称も広がったんだそうです。
『ニッポン、チャチャチャ』

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私、ブログの中で、“シナ”っていう名称使ってて、「そのまんまでいいかなぁ」って思ってたんですけど、なんかいろんな本とか読んでても、中国が圧倒的ですね。ついつい弱気が出て、私も最近、“中国”ってしてるんです。ダメですねぇ。
“シナ”の語源は最初の統一王朝である秦ですよね。インドに入って“シナ”、巡り巡って英語で“チャイナ”でしょ。支那の字が悪ければ、カタカナで“シナ”でどうでしょう。悪い字通りのイメージを“シナ”に感じるっていうんなら、やっぱり考える余地があるかと思ったんです。でも、あっちこっちに悪い字を当ててきたのは“シナ”の方ですし。
そうそう、あっちこっちから持ち込まれた音に獣偏とか虫偏とかをあてたわけですけど、《わ》もやはり、こちらからあちらに持ち込んだ音なわけですよね。それに《倭》という字をあてられて、みずからも《倭》と名のったわけです。やがて、《ヤマト》という政権が誕生してからも、自分たちには《わ》の一員であるという意識があるから、“中国”に対しては《倭》と書いて、《ヤマト》と名のったわけです。
その《ヤマト》の音をあらわすのに《大和》という字をあてたのは、やはり《倭》に侮蔑的な意味があることを知ったからなんでしょうね。そして、その時、自分たちの政権をもっとも的確に表す字を選んで、《大和》にしたんじゃないでしょうか。
以前、なんかの本で読んだんだけど、《わ》は“わっか”の《わ》じゃないかって。弥生時代に入ると水稲農業の発展によって人口が増加し、土地を巡って、あるいは富を巡っての戦いが発生し、人々は武装するとともに、自分たちの領域を守るための様々な工夫をしていきます。その中の一つに、集落の周辺に深い堀をめぐらす環濠集落があります。環濠の“わっか”の《わ》じゃないかという説です。
でも、これだと、《わ》が表す領域はとても狭いですよね。敵対する勢力だって環濠集落を形成しただろうし。だから、《わ》という言葉は、弥生よりも古い、縄文の記憶に由来するものじゃないでしょうか。だからこそ、《ヤマト》を漢字表記するとき、その漢字の読みにこだわらず、あえて《わ》という音にこだわって、“和”という字を使ったんじゃないでしょうか。
『古代史から読み解く「日本」のかたち』 倉本一宏 里中満智子 祥伝社 ¥ 886 古代史歴史学者と、古代を舞台にした作品を多く残してきたマンガ家が語り尽くす |
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大宝2(702)年の遣唐使は、天智天皇8(669)年以来、33年ぶりの派遣です。
天智・鎌足政権は改革抵抗勢力を利用して蘇我入鹿をクーデターによって排除し、その後も改革抵抗勢力を巧妙に利用しながら権力を握ったものと考えています。権力の掌握が目的ですから、その後の政治は改革色を打ち出したとしても、実際に改革を本格化させたのは天武政権だったと考えています。つまり、この時期に、唐に対して、国家の体裁を整えていったということです。
そしてこのとき、唐に対して、初めて《日本》という国号を使ってるんですね。唐とは言っても、この時は則天武后の周になっていたそうですが、先方との間で「なぜ国の名前が変わったか」と問答になって、粟田真人が「倭国は字の意味が良くないので日本に変えた」と説明しているんです。
国内的には、《日本》と書いて《ヤマト》と読むケースも少なくなかったみたいですね。ヤマトは、ムサシやシナノと同じように、本来は地域名でしょう。そこを中心に成立した連合政権を大和政権と読んだんでしょうけど、国家規模が拡大すれば、それに地域名を当てたままにするのは、むしろ不自然でしょう。・・・ローマは地中海を内海とするほど拡大してもローマですけどね。
それを《にほん》と読むか、《にっぽん》と読むかという問題もありますね。この本でもそのことを扱ってました。この本では《にっぽん》としています。ただ、仮名には「っ」や「゜」がなかったから、《にほん》と書いて《にっぽん》と読んだんだそうです。その間に、《にほん》という呼称も広がったんだそうです。
『ニッポン、チャチャチャ』


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