『私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた』 石平✖矢板明夫
この本は、石平さんと、産経新聞外信部次長の矢板明夫さんの対談もの。石平さんが天安門事件をきっかけに共産党の支配する“中国”を捨てて、日本に帰化したことは良く知られるところです。だけど、矢板明夫さんも“中国”生まれだったんですね。残留日本人孤児二世だそうです。
もともと、日本から“中国”に渡ったのは矢板さんのおじいさんだったそうで、北京で電気関連の工場を経営されてたんだそうです。それが、戦争末期に日本軍に徴用され、ソ連によってシベリアに抑留されて、そのまんま亡くなってしまったんです。おばあさんは1942年に生まれた矢板さんのお父さんやそのお姉さんを養うために、電気工場の元従業員と再婚したんだそうです。矢板さんのお父さんは、のちに“中国”の女性と結婚して、生まれたのが矢板さんと言うことですね。
矢板さんは1972年の生まれですから、文化大革命の真っただ中ですね。だから、おそらく幼い記憶に残るのは、改革開放の“中国”でしょうか。それ以前に日本のスパイみたいに言われて肩身の狭い思いをしていたご家族は、そこからは日本に縁者がいるということで、とても大事にされたんだそうです。15歳で日本に引き揚げたということなので、1987年ですか。今度はバブル真っただ中ですね。
石平さんの初来日は1988年だそうだから、前後して日本にやってきたわけですね。
それにしても、毛沢東っていうのは本当に恐ろしい。私の毛沢東初体験は、小学校のころに地元の宝屋というデパートがあって、何だか子どものころのことで、まったく背景が分からないんだけど、毛沢東物産展と言うのをやってたことでした。大した記憶じゃないんだけど、半分禿げあがった毛沢東の写真と、使いづらそうなぶっとい万年筆が並んでたのを覚えています。
1960年生まれの私の小学生時代の思い出ですので、やはり文革のころのものでしょう。日本では、左寄りの人たちを中心に高く評価されてたんですね。毛沢東の写真は、今でも天安門広場の象徴となってますよね。
劉暁波さんの自伝に、毛沢東に関わる一節があるそうです。それによれば毛沢東は、誰の心の中にも住んでいる“悪魔”を利用することの天才だったってことなんです。その“悪魔”を利用して、それを助長して、文化大革命を仕組んだと。紅衛兵という程度の低い学生やごろつきの劣等感や憎しみに正当性を与えて、地位や富のある人への攻撃に向かわせ、造反派に仕立て上げる。そうして毛沢東は、彼らを高級幹部や金持ちの家に向かわせたわけです。
本当に、おそろしい。
*劉暁波さんですが、彼は天安門事件のあと、どうして“中国”を出なかったのか。直接彼に取材した矢板さんの話が、この本に載ってました。


“中国”にとって、日本は北京ダックのようなもんだったらしいです。そういわれても、・・・実は北京ダックを食ったことのない私は困ってしまいます。
え~と、なになに? 北京ダックっていうのは、《まず皮を薄く切って餅皮で包んで食べる。次に残ったお肉はもやしなどの野菜と炒めて食べる。最後に残った骨でスープをいただく》と言うことのようです。・・・無駄なく、喰い尽すということですね。・・・えー❢
中国共産党が政権を取ったのは、日中戦争があったおかげで、日本との戦いで国民党が弱体化しなければ、国民党との内戦には絶対に勝てなかった。つまり、中国共産党が勝利し、中華人民共和国と言う国が生まれたのは日本のおかげということですね。
続いて、文革が終わって、鄧小平が改革開放を始めたとき、資金も技術も経済も、すべてを“中国”に提供したのは日本でしたね。なかでも、その範を示したのが松下幸之助の松下電器で、1978年には“中国”に進出しています。さらに松下幸之助は「21世紀は日本や中国などの繁栄の時代。大きな視野で、中国の近代化に協力しなければならない」と、各界に積極的に働きかけたそうです。
最後に、“中国”が日本を超えるために、徹底した愛国反日教育を行って、国民を一つに束ねたということなんですね。・・・反日デモではパナソニックも襲撃されてましたね。
これで、“中国”は、日本を十分食べつくしたということのようです。歪んでますね、とっても・・・。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
もともと、日本から“中国”に渡ったのは矢板さんのおじいさんだったそうで、北京で電気関連の工場を経営されてたんだそうです。それが、戦争末期に日本軍に徴用され、ソ連によってシベリアに抑留されて、そのまんま亡くなってしまったんです。おばあさんは1942年に生まれた矢板さんのお父さんやそのお姉さんを養うために、電気工場の元従業員と再婚したんだそうです。矢板さんのお父さんは、のちに“中国”の女性と結婚して、生まれたのが矢板さんと言うことですね。
矢板さんは1972年の生まれですから、文化大革命の真っただ中ですね。だから、おそらく幼い記憶に残るのは、改革開放の“中国”でしょうか。それ以前に日本のスパイみたいに言われて肩身の狭い思いをしていたご家族は、そこからは日本に縁者がいるということで、とても大事にされたんだそうです。15歳で日本に引き揚げたということなので、1987年ですか。今度はバブル真っただ中ですね。
石平さんの初来日は1988年だそうだから、前後して日本にやってきたわけですね。
それにしても、毛沢東っていうのは本当に恐ろしい。私の毛沢東初体験は、小学校のころに地元の宝屋というデパートがあって、何だか子どものころのことで、まったく背景が分からないんだけど、毛沢東物産展と言うのをやってたことでした。大した記憶じゃないんだけど、半分禿げあがった毛沢東の写真と、使いづらそうなぶっとい万年筆が並んでたのを覚えています。
1960年生まれの私の小学生時代の思い出ですので、やはり文革のころのものでしょう。日本では、左寄りの人たちを中心に高く評価されてたんですね。毛沢東の写真は、今でも天安門広場の象徴となってますよね。
劉暁波さんの自伝に、毛沢東に関わる一節があるそうです。それによれば毛沢東は、誰の心の中にも住んでいる“悪魔”を利用することの天才だったってことなんです。その“悪魔”を利用して、それを助長して、文化大革命を仕組んだと。紅衛兵という程度の低い学生やごろつきの劣等感や憎しみに正当性を与えて、地位や富のある人への攻撃に向かわせ、造反派に仕立て上げる。そうして毛沢東は、彼らを高級幹部や金持ちの家に向かわせたわけです。
本当に、おそろしい。
*劉暁波さんですが、彼は天安門事件のあと、どうして“中国”を出なかったのか。直接彼に取材した矢板さんの話が、この本に載ってました。
『私たちは中国が世界で一番幸せな国だと思っていた』 石平✖矢板明夫 ビジネス社 ¥ 1,404 中国人エリート、残留孤児二世だったから分かる 独裁者習近平は毛沢東が作った |
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“中国”にとって、日本は北京ダックのようなもんだったらしいです。そういわれても、・・・実は北京ダックを食ったことのない私は困ってしまいます。
え~と、なになに? 北京ダックっていうのは、《まず皮を薄く切って餅皮で包んで食べる。次に残ったお肉はもやしなどの野菜と炒めて食べる。最後に残った骨でスープをいただく》と言うことのようです。・・・無駄なく、喰い尽すということですね。・・・えー❢
中国共産党が政権を取ったのは、日中戦争があったおかげで、日本との戦いで国民党が弱体化しなければ、国民党との内戦には絶対に勝てなかった。つまり、中国共産党が勝利し、中華人民共和国と言う国が生まれたのは日本のおかげということですね。
続いて、文革が終わって、鄧小平が改革開放を始めたとき、資金も技術も経済も、すべてを“中国”に提供したのは日本でしたね。なかでも、その範を示したのが松下幸之助の松下電器で、1978年には“中国”に進出しています。さらに松下幸之助は「21世紀は日本や中国などの繁栄の時代。大きな視野で、中国の近代化に協力しなければならない」と、各界に積極的に働きかけたそうです。
最後に、“中国”が日本を超えるために、徹底した愛国反日教育を行って、国民を一つに束ねたということなんですね。・・・反日デモではパナソニックも襲撃されてましたね。
これで、“中国”は、日本を十分食べつくしたということのようです。歪んでますね、とっても・・・。


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