山『山頭火俳句集』 夏目番矢編
このあたりはまことに高原らしい風景である。霧島が悠然として晴れわたった空へ盛り上がっている、山のよさ、水のうまさ。 西洋人は山を征服しようとするが、東洋人は山を観照する、我々にとって山は科学の対象ではなく芸術品である。若い人は若い力で山を踏破せよ、私はじっと山を味わうのである。 本書p192 |
霧島にみとれてゐれば赤とんぼ
朝の山のしづかにも霧のよそほひ
こうして旅の山々の紅葉
山に向かって久しぶりの大声
しぐれて山をまた山を知らない山
しっかとお骨いだいて山また山
月あかりして山がやまがどっしり
霧雨のお山は濡れてのぼる
人に逢わなくなりてより山のてふてふ
ふるさとはあの山なみの雪のかがやく
『山頭火俳句集』 夏目番矢編 岩波書店 ¥ 1,145 日本人に広く親しまれるだけでなく、世界で愛読されている前衛詩人 |
|
NHKの《にっぽん百名山》とか、他にも山を紹介するテレビ番組が多いですよね。ガイド役の人が、いつもいいウェアを着ていたり、高そうなザックを背負っていたりして、とてもうらやましい。悔しいから、絶対メーカー品の装備なんか買わないんだ。
そういえば、1年前に奥日光に行ったとき、ほら、去年の夏は雨が多かったじゃないですか。私も日光白根に登るのをあきらめて戦場ヶ原を歩くことにしてバスに乗ったんです。そしたらバスの中で、ザックカバーの使い方が分からないという年配のご婦人がいて、聞かれたんですね。そもそもザックの調節そのものからしておかしかったんで治してあげたんですが、そしたら私も、私もって、バスから下りたら私の前に行列ができました。
それはともかく、そういうテレビ番組を見て、「ああ、あそこは若いころに歩いたな~」なんてところが出てくると、胸がキューっとなってね。切なくなります。
そういう時に思うのは、「もう一度山を歩きたい」ってことで、「山に登りたい」ってことじゃないんですよね。これは不思議な感覚でした。若い頃は、けっこう登ることにこだわったのに。
でも、どうでしょうね。「穂高に登った」っていうのと、「穂高を歩いた」っていうの。今の私は、完全に、「穂高を歩いた」って方なんですけど。
かつて、日本人は、死ぬと山に行ったみたいですね。
山あをあをと死んでいく
月よ山よ私は旅で病んでいる
病んで寝てゐてまこと信濃は山ばかり
山のまろさは蜩がなき
家がとぎれると水音の山百合
山の仏には山の花
しめやかな山とおもへば墓がある
乞ふことをやめて山を観る
また見ることのない山が遠ざかる
分け入っても分け入っても青い山
山を歩くと、墓に出くわすことが多い。かつては人家のすぐ近くにあって、日々手を合わせる人が通った墓も、人家はすでになく、手を合わせに訪れる人もいない。そんな墓に、時々、出くわすことがある。意外と恐怖を感じない。なんどもなんども手を合わせられて、すっかり成仏してしまったか。
![]() | 山登りの人たちには登山道でも、かつてはただの道。そのお地蔵さまは全身すっかり苔むして、登山者から苔地蔵と呼ばれている。登山道沿いの馬頭観音は、裏から成長した木に食われたようになっている。 | ![]() |


- 関連記事
-
- 『武士の日本語』 野火迅 (2018/10/13)
- 『山頭火俳句集』 夏目番矢編 (2018/09/05)
- 山『山頭火俳句集』 夏目番矢編 (2018/08/30)
- 『ねみみにみみず』 東江一紀 (2018/08/06)
- 『漢字のツボ』 円満寺二郎 (2018/08/03)