『 “世界の果て”の物語』 ドミニク・ラニ
なんだ、ヨーロッパ人は、まるでギリシャの物語を横からかすめ取るように我が物として、そこにかこつけて冒険談を語ることのどうのこうのと、さんざっぱら言わせてもらっちゃいましたけど、ほぼこの本の紹介にはなっていませんでした。謹んで、お詫びいたしますと同時に、あらためてこの本のお話をさせていただきたいと思うわけでござ、・・・ござ、ござ、ござ・・・。
先日、あれだけなんだかんだと言わせてもらった上でなんですけど、この本、とても魅力的で、素敵な本でした。まずは、装丁がいいですよね。本屋さんで目につきました。
ジョアシャン・デュ・ベレーというフランスの詩人を私は知りませんでしたが、《ユリシーズやイアソンのように素晴らしい旅をして、それから経験と分別をたっぷり身につけ、故郷に戻り、残りの歳月を両親とともに生きる》ことができれば、それは良い事かもしれません。
だけど、旅人の多くは帰らないものです。帰れなかったのかもしれません。それでも、旅はいい。旅はいいもんです。
今はもう、探検はなくなってしまったんでしょうか。人類にとって《未知なる場所》という意味においては、たしかに探検はなくなったのかもしれません。なにしろ、飛行機がその上を飛び回るだけじゃなくて、人工衛星が余すところなく写し取ってしまうわけですから。
でも、大航海時代以降、ヨーロッパ人にとっての未知なる場所は次々と征服され、その正体を白日の下に暴かれていきました。・・・まずい!こんな書き方を始めると、前回の二の舞に・・・。
どこからか伝えられた不確かな情報を頼りに、あるいは神話に描かれた英雄の伝説を頼りに、旅立つ者がいたわけです。旅人は帰らなかったかもしれません。だけど、何人も何人もの旅人が出かけて行きました。そして、未知なる伝説の場所は、少しずつ少しずつ、その姿を明らかにしていったのです。


ジパングも、取り上げられているんですよ。マルコ・ポーロですね。でも、彼が伝えたジパング情報はすべて聞き伝えで、マルコポーロ自身が日本に来たわけじゃあありません。もし来ていれば、あそこまで厚塗りされたジパングにはならなかったんじゃないでしょうか。
《人々の肌は白く》・・・たしかに色白の人もいます。《礼儀正しく》・・・これは間違いありません。そういう情報も入っているから、よけいに厄介。《偶像を崇拝して》・・・その通り。“朝に夕に”どころじゃありません。一日中、何かしらに手を合わせています。《その島には金があり、人々は無尽蔵の金を所有している》・・・時代的に考えて、彼に伝えられた情報が12世紀のものであれば、東北の金鉱でしょう。《宮殿はすべて純金でおおわれている》・・・中尊寺金色堂かな。《宮殿の石畳や部屋もすべて金、しかも指二本もの厚さで、窓もそうだから、この宮殿の富たるや計り知れず、誰も信じられないだろう》・・・その通り、信じられません。
ジパングを目指してバロス港を出港したコロンブスは、彼がその周辺と信じる地域にたどり着いたわけです。そしてそこを西インドと命名し、そこに生きる人々をインド人と呼んだわけです。
もしそれだけのことであったなら、マルコ・ポーロの話が、少なくとも事実に基づいたものであることが実証されたにすぎなかったわけです。ところが、そうじゃなかったわけですね。予想もしなかった展開。行った側も、やってこられた側も、上を下への大騒ぎ。
そんな、伝説と冒険の時代は、たしかにあったわけです。この本は、そんな時代の、奇想天外な冒険の物語。
さて、コロンブスの発見の続きですが、そこから以降は、まったくの新しい展開。なにしろ彼がインドの入り口と思った場所は、ヨーロッパ人にとって“未知なる大陸”の入り口だったわけですから。結局、振られたさいころがどんな目を出すかなんて、予測すること自体が困難ですよね。だって、出るはずのない“7”の目が出るんですから。
“未知なる場所”は、もうなくなってしまったですか。旅は、予定の中だけでしか出来なくなってしまいましたか。案外、そんなこともないんじゃないでしょうか。私は知らないことだらけです。それを、“未知”と呼んではおかしいですか。
とりあえず、さいころは振っておきましょう。振らないことには、何も始まらないからね。・・・さてさて、どんな目が出ることやら。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
先日、あれだけなんだかんだと言わせてもらった上でなんですけど、この本、とても魅力的で、素敵な本でした。まずは、装丁がいいですよね。本屋さんで目につきました。
ジョアシャン・デュ・ベレーというフランスの詩人を私は知りませんでしたが、《ユリシーズやイアソンのように素晴らしい旅をして、それから経験と分別をたっぷり身につけ、故郷に戻り、残りの歳月を両親とともに生きる》ことができれば、それは良い事かもしれません。
だけど、旅人の多くは帰らないものです。帰れなかったのかもしれません。それでも、旅はいい。旅はいいもんです。
今はもう、探検はなくなってしまったんでしょうか。人類にとって《未知なる場所》という意味においては、たしかに探検はなくなったのかもしれません。なにしろ、飛行機がその上を飛び回るだけじゃなくて、人工衛星が余すところなく写し取ってしまうわけですから。
でも、大航海時代以降、ヨーロッパ人にとっての未知なる場所は次々と征服され、その正体を白日の下に暴かれていきました。・・・まずい!こんな書き方を始めると、前回の二の舞に・・・。
どこからか伝えられた不確かな情報を頼りに、あるいは神話に描かれた英雄の伝説を頼りに、旅立つ者がいたわけです。旅人は帰らなかったかもしれません。だけど、何人も何人もの旅人が出かけて行きました。そして、未知なる伝説の場所は、少しずつ少しずつ、その姿を明らかにしていったのです。
『 “世界の果て”の物語』 ドミニク・ラニ 河出書房新社 ¥ 3,218 希望と欲を原動力に地の果てへと邁進した探検家、歴史家、旅行家たちの34の冒険譚 |
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ジパングも、取り上げられているんですよ。マルコ・ポーロですね。でも、彼が伝えたジパング情報はすべて聞き伝えで、マルコポーロ自身が日本に来たわけじゃあありません。もし来ていれば、あそこまで厚塗りされたジパングにはならなかったんじゃないでしょうか。
《人々の肌は白く》・・・たしかに色白の人もいます。《礼儀正しく》・・・これは間違いありません。そういう情報も入っているから、よけいに厄介。《偶像を崇拝して》・・・その通り。“朝に夕に”どころじゃありません。一日中、何かしらに手を合わせています。《その島には金があり、人々は無尽蔵の金を所有している》・・・時代的に考えて、彼に伝えられた情報が12世紀のものであれば、東北の金鉱でしょう。《宮殿はすべて純金でおおわれている》・・・中尊寺金色堂かな。《宮殿の石畳や部屋もすべて金、しかも指二本もの厚さで、窓もそうだから、この宮殿の富たるや計り知れず、誰も信じられないだろう》・・・その通り、信じられません。
ジパングを目指してバロス港を出港したコロンブスは、彼がその周辺と信じる地域にたどり着いたわけです。そしてそこを西インドと命名し、そこに生きる人々をインド人と呼んだわけです。
もしそれだけのことであったなら、マルコ・ポーロの話が、少なくとも事実に基づいたものであることが実証されたにすぎなかったわけです。ところが、そうじゃなかったわけですね。予想もしなかった展開。行った側も、やってこられた側も、上を下への大騒ぎ。
そんな、伝説と冒険の時代は、たしかにあったわけです。この本は、そんな時代の、奇想天外な冒険の物語。
さて、コロンブスの発見の続きですが、そこから以降は、まったくの新しい展開。なにしろ彼がインドの入り口と思った場所は、ヨーロッパ人にとって“未知なる大陸”の入り口だったわけですから。結局、振られたさいころがどんな目を出すかなんて、予測すること自体が困難ですよね。だって、出るはずのない“7”の目が出るんですから。
“未知なる場所”は、もうなくなってしまったですか。旅は、予定の中だけでしか出来なくなってしまいましたか。案外、そんなこともないんじゃないでしょうか。私は知らないことだらけです。それを、“未知”と呼んではおかしいですか。
とりあえず、さいころは振っておきましょう。振らないことには、何も始まらないからね。・・・さてさて、どんな目が出ることやら。


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