尊攘派『日本史上最高の英雄 大久保利通』 倉山満
《第二章 尊攘派に翻弄された「激動」の幕末》に、アメリカ公使館通訳のヘンリー・ヒュースケンが薩摩藩の伊牟田尚平らに暗殺された件が取り上げられています。
1860年12月の事件ですね。翌1861年にはイギリス公使のオールコックが襲撃されているし、更に1863年には高杉晋作らが建設中のイギリス公使館を焼き討ちしています。
このあたり、幕府は尊攘派に鼻面を引きずり回され、次第に体力を失っていきます。
伊牟田尚平に殺されたヘンリー・ヒュースケンは、いい人だったみたいですね。日本はオランダを通して世界を見てましたから、西洋の学問は蘭学として学んだんですね。ところが、残念ながら、西洋は英語で日本に迫ってきたわけです。
福沢諭吉は、死にものぐるいで勉強したオランダ語が、役に立たなかったわけですから、残念だったでしょうね。福沢諭吉はそこから英語に切り替えて、おそらくまた、死にものぐるいで学んだだんでしょう、しかし、なかには絶望して、蘭学で止まってしまった人も少なくないそうです。
そこで、ヒュースケンの登場です。ヒュースケンらオランダ系移民は、けっこう厳しい経済状況にあったようです。そんな時、《英語とオランダ語が出来て、日本で働く仕事》という募集があったんだそうです。それに応募して、ヒュースケンはハリスの助手という形で、日本で働くことになりました。
ヒュースケンは、日本人を好意的に受け止めていたようです。だけど、ヒュースケンは、残念ながら、日本人に殺されて死にます。殺したのは、薩摩藩士の伊牟田尚平たちでした。


同じようなことが、ずいぶん起こってたんですね。確実に、このときの日本は分裂していて、イギリスにしろ、フランスやロシアにしろ、つけ込みどころ満載でした。もちろんアメリカも、・・・ですが、アメリカは、イギリスあたりの国からすれば、悪人にしては人が良すぎるくらいだったんでしょう。
そんな列強に対して、やはり日本は力がなかったわけです。なんにしても、根本にそれがあります。力がなければ、無様にこびを使うか、高飛車に出て鼻で笑われるしかないわけです。「****は立派な人物」なんて上から目線の褒め言葉には、なんの意味もないわけです。
だから、国を変えなきゃいけないわけです。本書にもある通り、大事なことは《富国強兵と政令一途》です。本当に正しく国を憂える者たちが国を動かせればいいわけですが、そこには当然権力の問題が絡みます。
江戸幕府の支配の論理である朱子学の立場から、江戸幕府を追い詰める方法が、尊王攘夷ですね。それにしても、今にしてみれば、みっともないことです。彼らのやってることは、日本を危機的な状況に追い込むことですから。
なおも、伊牟田尚平や益満休之助は、西郷隆盛の手駒として働きました。何しろ、彼らが江戸市中を混乱させるために集めた無頼の輩は500名を超えるっていうんですから。
500名を超える無頼の輩が、強盗や放火を繰り返したんですよ。革命家西郷隆盛の真骨頂ですね。革命家は、人の命なんてなんとも思わないんです。
レーニンがどんな世の中を作りました。そこでスターリンはなにをしましたか。第一次世界大戦で一千万人を超える人がなくなる中で、彼れはこれを、好機到来と捉えていたわけですね。
伊牟田尚平や益満休之助に集められた相楽総三は、年貢半減を言いふらした偽官軍として殺されますね。益満休之助は上野戦争で流れ弾にあたったと言われますが、いったい誰が打った玉だったでしょう。伊牟田尚平は、強盗殺人の罪を問われて、どうやら薩摩藩邸で自刃。
うまい具合に口封じ。
尊皇攘夷という大義名分は、とても、使い出が良かったんですね。

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1860年12月の事件ですね。翌1861年にはイギリス公使のオールコックが襲撃されているし、更に1863年には高杉晋作らが建設中のイギリス公使館を焼き討ちしています。
このあたり、幕府は尊攘派に鼻面を引きずり回され、次第に体力を失っていきます。
伊牟田尚平に殺されたヘンリー・ヒュースケンは、いい人だったみたいですね。日本はオランダを通して世界を見てましたから、西洋の学問は蘭学として学んだんですね。ところが、残念ながら、西洋は英語で日本に迫ってきたわけです。
福沢諭吉は、死にものぐるいで勉強したオランダ語が、役に立たなかったわけですから、残念だったでしょうね。福沢諭吉はそこから英語に切り替えて、おそらくまた、死にものぐるいで学んだだんでしょう、しかし、なかには絶望して、蘭学で止まってしまった人も少なくないそうです。
そこで、ヒュースケンの登場です。ヒュースケンらオランダ系移民は、けっこう厳しい経済状況にあったようです。そんな時、《英語とオランダ語が出来て、日本で働く仕事》という募集があったんだそうです。それに応募して、ヒュースケンはハリスの助手という形で、日本で働くことになりました。
ヒュースケンは、日本人を好意的に受け止めていたようです。だけど、ヒュースケンは、残念ながら、日本人に殺されて死にます。殺したのは、薩摩藩士の伊牟田尚平たちでした。
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同じようなことが、ずいぶん起こってたんですね。確実に、このときの日本は分裂していて、イギリスにしろ、フランスやロシアにしろ、つけ込みどころ満載でした。もちろんアメリカも、・・・ですが、アメリカは、イギリスあたりの国からすれば、悪人にしては人が良すぎるくらいだったんでしょう。
そんな列強に対して、やはり日本は力がなかったわけです。なんにしても、根本にそれがあります。力がなければ、無様にこびを使うか、高飛車に出て鼻で笑われるしかないわけです。「****は立派な人物」なんて上から目線の褒め言葉には、なんの意味もないわけです。
だから、国を変えなきゃいけないわけです。本書にもある通り、大事なことは《富国強兵と政令一途》です。本当に正しく国を憂える者たちが国を動かせればいいわけですが、そこには当然権力の問題が絡みます。
江戸幕府の支配の論理である朱子学の立場から、江戸幕府を追い詰める方法が、尊王攘夷ですね。それにしても、今にしてみれば、みっともないことです。彼らのやってることは、日本を危機的な状況に追い込むことですから。
なおも、伊牟田尚平や益満休之助は、西郷隆盛の手駒として働きました。何しろ、彼らが江戸市中を混乱させるために集めた無頼の輩は500名を超えるっていうんですから。
500名を超える無頼の輩が、強盗や放火を繰り返したんですよ。革命家西郷隆盛の真骨頂ですね。革命家は、人の命なんてなんとも思わないんです。
レーニンがどんな世の中を作りました。そこでスターリンはなにをしましたか。第一次世界大戦で一千万人を超える人がなくなる中で、彼れはこれを、好機到来と捉えていたわけですね。
伊牟田尚平や益満休之助に集められた相楽総三は、年貢半減を言いふらした偽官軍として殺されますね。益満休之助は上野戦争で流れ弾にあたったと言われますが、いったい誰が打った玉だったでしょう。伊牟田尚平は、強盗殺人の罪を問われて、どうやら薩摩藩邸で自刃。
うまい具合に口封じ。
尊皇攘夷という大義名分は、とても、使い出が良かったんですね。


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