『東国武士政権』 安達史人
父親を清盛に殺され、伊豆に流された源頼朝。
《その流人の頼朝が中心になって、坂東武者を糾合し、貴族化した平氏の一族を討伐して作られたのが鎌倉幕府》
『吾妻鏡』が言うそれは、・・・やっぱりもう常識になってますよね。そこに文句を入れちゃあ、ちょっとめんどくさいことになりそうですよ。そのめんどくさいところに文句を入れちゃったのが、この本ということなんです。
まあ、前々から著者は、平氏討伐と鎌倉における政権樹立に疑問を持っていたということなんです。頼朝の挙兵は、たしかにしょぼいものですよね。そんなしょぼい挙兵しかできない頼朝に、「平氏にあらざるは人にあらず」ってほどの平氏に逆らってまで味方しようって坂東武者が、次から次から出てくるっていうのは、たしかに不思議な話です。
しかも、千葉氏、三浦氏、和田氏、畠山氏ら、頼朝の協力者は、こぞって平氏系の人々でした。頼朝という存在を無視すれば、ここからの源平合戦は、じつは、平平合戦といえるような戦いだったわけです。
不思議ですね。
甲斐や常陸に源氏の勢力があったのに、そっちに協力を求めないんですね。むしろ、常陸の佐竹氏なんか鎌倉の軍に討伐されています。
「この時代における常識とされる歴史は、『吾妻鏡』に書かれたものがもとになっています。その『吾妻鏡』は、鎌倉幕府が成立してから5・60年後、すでに鎌倉幕府を仕切っていた北条氏によって書かれたもの」と、著者は指摘します。たしかにその通り、『吾妻鏡』は勝者である北条氏が、その正当性を主張するものです。
では、この一連の動きの中における“敗者”は、いったい誰なんでしょう。
この本は、源氏と平氏の抗争を、“この時代”に日記として書いていた、貴族で政治家の、九条兼実の文章で追いかけていくものです。その日記が、『玉葉』です。たしかに、ずいぶん後から、この出来事から利益を受けている当事者の書いた『吾妻鏡』よりも、この『玉葉』の方が、資料的価値は高そうですね。


この本は、以仁王の令旨が出された1176ねんから、時系列に沿って、『玉葉』に書かれている内容を拾っていきます。まずは、最初に、『玉葉』に書かれていることが記され、それに対して著者の意見が書かれていきます。時には、著者の協力者の意見が付されています。
このあたりの、大まかな流れ、その流れは『吾妻鏡』をもとにした、“常識”と言われる歴史のことですが、その大まかな流れが分かっていればいいでしょう。著者が、そのたびに、その“常識”と『玉葉』に書かれていることの違いや、注目すべきところを上げていく形で進めれれていきます。私でも何とかなったくらいですから、ついていくのは、それほど難しいことでもなさそうです。
頼朝の挙兵の部分でも、ずいぶんと“常識”からは離れたことが書かれています。そりゃまあ、リアルタイムというものの、九条兼実は京都にいるわけですから、辺境の地である坂東の情報が正確に伝わるはずもありません。
兼実は、頼朝の挙兵を、それよりも200年ほど前の、平将門の乱と比べていくんです。かつて、新皇となのって関東を支配した平将門に、天下を傾ける危うさを感じさせられた平安京政権は、また同じことになりはしないかと、頼朝の挙兵に関心を持ったようなんです。
・・・なんか、少し違う。思っていたのと、微妙にニュアンスが違うような気がします。
敗残の将となって千葉に渡った頼朝を房総の諸勢力が応援し、まもなく武蔵国の武士が駆けつけて何万騎にもなったと『吾妻鏡』は言いますが、なぜ、平氏系の彼らが、そうも簡単に、まだ“敗残の将”でしかない頼朝のもとに集まるのか。
結論が出されるわけではありません。この本は、疑問を呈するだけで、『吾妻鏡』とは違う歴史的事実が、本当はあったんじゃないかということを、この時に起こっていたことを、もう一度、問題提起する本です。
当初、先に書いた“めんどくささ”をこの本に感じていたんです。でも、違いました。安達史人さんは、いわゆる歴史家じゃありません。だから、『玉葉』にあたって始めてわかる、『吾妻鏡』への素直な疑問が、ポンポン上がってくるんです。だから歴史が書き直されるとかって話ではないですが、こういう疑問に、本気で向き合える度量の広い歴史家さんにいてもらいたいもんだと思いました。

一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
《その流人の頼朝が中心になって、坂東武者を糾合し、貴族化した平氏の一族を討伐して作られたのが鎌倉幕府》
『吾妻鏡』が言うそれは、・・・やっぱりもう常識になってますよね。そこに文句を入れちゃあ、ちょっとめんどくさいことになりそうですよ。そのめんどくさいところに文句を入れちゃったのが、この本ということなんです。
まあ、前々から著者は、平氏討伐と鎌倉における政権樹立に疑問を持っていたということなんです。頼朝の挙兵は、たしかにしょぼいものですよね。そんなしょぼい挙兵しかできない頼朝に、「平氏にあらざるは人にあらず」ってほどの平氏に逆らってまで味方しようって坂東武者が、次から次から出てくるっていうのは、たしかに不思議な話です。
しかも、千葉氏、三浦氏、和田氏、畠山氏ら、頼朝の協力者は、こぞって平氏系の人々でした。頼朝という存在を無視すれば、ここからの源平合戦は、じつは、平平合戦といえるような戦いだったわけです。
不思議ですね。
甲斐や常陸に源氏の勢力があったのに、そっちに協力を求めないんですね。むしろ、常陸の佐竹氏なんか鎌倉の軍に討伐されています。
「この時代における常識とされる歴史は、『吾妻鏡』に書かれたものがもとになっています。その『吾妻鏡』は、鎌倉幕府が成立してから5・60年後、すでに鎌倉幕府を仕切っていた北条氏によって書かれたもの」と、著者は指摘します。たしかにその通り、『吾妻鏡』は勝者である北条氏が、その正当性を主張するものです。
では、この一連の動きの中における“敗者”は、いったい誰なんでしょう。
この本は、源氏と平氏の抗争を、“この時代”に日記として書いていた、貴族で政治家の、九条兼実の文章で追いかけていくものです。その日記が、『玉葉』です。たしかに、ずいぶん後から、この出来事から利益を受けている当事者の書いた『吾妻鏡』よりも、この『玉葉』の方が、資料的価値は高そうですね。
『東国武士政権』 安達史人 批評社 ¥ 3,240 九条兼実の日記「玉葉」を解読、分析することで「歴史的史実」を明らかにする! |
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この本は、以仁王の令旨が出された1176ねんから、時系列に沿って、『玉葉』に書かれている内容を拾っていきます。まずは、最初に、『玉葉』に書かれていることが記され、それに対して著者の意見が書かれていきます。時には、著者の協力者の意見が付されています。
このあたりの、大まかな流れ、その流れは『吾妻鏡』をもとにした、“常識”と言われる歴史のことですが、その大まかな流れが分かっていればいいでしょう。著者が、そのたびに、その“常識”と『玉葉』に書かれていることの違いや、注目すべきところを上げていく形で進めれれていきます。私でも何とかなったくらいですから、ついていくのは、それほど難しいことでもなさそうです。
頼朝の挙兵の部分でも、ずいぶんと“常識”からは離れたことが書かれています。そりゃまあ、リアルタイムというものの、九条兼実は京都にいるわけですから、辺境の地である坂東の情報が正確に伝わるはずもありません。
兼実は、頼朝の挙兵を、それよりも200年ほど前の、平将門の乱と比べていくんです。かつて、新皇となのって関東を支配した平将門に、天下を傾ける危うさを感じさせられた平安京政権は、また同じことになりはしないかと、頼朝の挙兵に関心を持ったようなんです。
・・・なんか、少し違う。思っていたのと、微妙にニュアンスが違うような気がします。
敗残の将となって千葉に渡った頼朝を房総の諸勢力が応援し、まもなく武蔵国の武士が駆けつけて何万騎にもなったと『吾妻鏡』は言いますが、なぜ、平氏系の彼らが、そうも簡単に、まだ“敗残の将”でしかない頼朝のもとに集まるのか。
結論が出されるわけではありません。この本は、疑問を呈するだけで、『吾妻鏡』とは違う歴史的事実が、本当はあったんじゃないかということを、この時に起こっていたことを、もう一度、問題提起する本です。
当初、先に書いた“めんどくささ”をこの本に感じていたんです。でも、違いました。安達史人さんは、いわゆる歴史家じゃありません。だから、『玉葉』にあたって始めてわかる、『吾妻鏡』への素直な疑問が、ポンポン上がってくるんです。だから歴史が書き直されるとかって話ではないですが、こういう疑問に、本気で向き合える度量の広い歴史家さんにいてもらいたいもんだと思いました。


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