『味見したい本』 木村衣有子
《この本は、食にまつわる38冊を俎上に載せた書評エッセイ集です》・・・と、“はじめに”の冒頭に書かれています。
『味見したい本』という題名に飛びついた私です。「この本に書かれている料理があまりにもうまそうなので、読んでいるだけで、ついつい味見したくなってしまう、そんな気持ちにさせられる本なんじゃないかな」って、勝手に思い込んでおりました。
当初、その“はじめに”の冒頭の文章をよんでも、この本が一体どんな本なのか、理解することができませんでした。まず、この本が相手にしているのは、料理ではなくて、本です。その本は、料理に関わる本で、ほどんどがエッセイとして書かれたものの様です。つまり、料理に関するエッセイに関するエッセイということですね。
“食書評エッセイ”とは、あまり聞いたことがありませんので、著者、木村衣有子さんの命名でしょうか。その、“食書評エッセイ集”として、著者はすでに、『もの食う本』という本を出しているんだそうです。七年も前のことだということですが、『味見したい本』より、はるかに凶暴で、おそろしげな名前の本ですね。
「食べるということについて書く」ってことは、わかります。食べない人はいませんからね。誰だって、普通の人なら、一日に何度も、何かしらを食べてます。家で、誰かに作ってもらって食べてるのかもしれません。お店で、お昼ご飯を食べてるのかもしれません。自分で、自分のために作って食べるのかもしれません。
シチュエーションも、料理も千差万別で、あらゆるものが同じなんて状況の方が、むしろ少ないというか、不自然ですらあります。他愛もない一食であるかもしれないけど、おそらく、そのシチュエーションで、そのご飯を食べることには、なにがしかの物語がないはずはありません。
人は、それをエッセイとして書きます。


でも、この本は違うんです。人が「食べるということについて書く」のではなく、「人が食べるということについて書いた本について書く」ということなんです。
だからこれは、食べ物について書いた本ではないんですね。その食べ物について書いた人であったり、その人の生き方であったり、時代であったり、場所であったりって、そういうことについて書いた本なんですね。
食べ物について語ろうとすると、人間、いろいろな側面を文章にさらしてしまいます。そう言えば、ずいぶん昔の話になってしまいますが、『傷だらけの天使』というテレビドラマがありました。すごい人気がありましたね。その中で、差配使役の岸田今日子のセリフに、「食事しているところをみられるのは、ベッドを覗かれるよりも嫌」というのがありました。
高校生の私は、ベッドの上で何が行われているのか、まだ知らないままに、何だか納得をしておりました。未だにそのセリフを忘れていないところを見ると、何かしらの共感を覚えたのではなかったかと思われます。
ものの食い方というのは、お里が知れますね。母親の作ったものを食べて大きくなったんですから、当たり前ですね。だから、ものを食うことを思うと、自然と母のことを思い出してしまいます。母にまつわる食べ物の思い出の一つに、おむすびに関わるものがあります。
高校生の時分、山に登るときはいつもおむすびを作ってもらっていました。大きなやつを五つくらい持って行きました。ある時、途中で、高校生の女の子たちのグループと知り合って、お昼を一緒に食べました。何やら、急に来れなくなった人もいて、お昼ごはんが余ってしまいそうなので、食べてほしいとのこと。もちろん協力しました。しかし、そのせいで、母に作ってもらったおむすびを、食べきれなくなってしまったんです。最後の一つがどうしても・・・。母は、私が、母の作ったものなら何でも残さずに食べることを、いつも喜んでくれてました。その母の作ったおむすびを、食べきれずに残して帰ることができずに、私はそれを、近所の押掘川に投げ捨てました。
ああ、・・・帰ってから、母の顔をしっかり見ることができませんでした。
やはり、ものを食べることを想うと、なんか恥ずかしい。ベッドを覗かれるほどではないけれど・・・。
そんな恥ずかしさ、嬉しさ、悲しさ、愛おしさを書いたものなら、読んだ者は、それなりの感慨を抱くのが当たり前です。そんな本の、水先案内をしているのが、この“食書評エッセイ”ということになるんでしょうか。
一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
『味見したい本』という題名に飛びついた私です。「この本に書かれている料理があまりにもうまそうなので、読んでいるだけで、ついつい味見したくなってしまう、そんな気持ちにさせられる本なんじゃないかな」って、勝手に思い込んでおりました。
当初、その“はじめに”の冒頭の文章をよんでも、この本が一体どんな本なのか、理解することができませんでした。まず、この本が相手にしているのは、料理ではなくて、本です。その本は、料理に関わる本で、ほどんどがエッセイとして書かれたものの様です。つまり、料理に関するエッセイに関するエッセイということですね。
“食書評エッセイ”とは、あまり聞いたことがありませんので、著者、木村衣有子さんの命名でしょうか。その、“食書評エッセイ集”として、著者はすでに、『もの食う本』という本を出しているんだそうです。七年も前のことだということですが、『味見したい本』より、はるかに凶暴で、おそろしげな名前の本ですね。
「食べるということについて書く」ってことは、わかります。食べない人はいませんからね。誰だって、普通の人なら、一日に何度も、何かしらを食べてます。家で、誰かに作ってもらって食べてるのかもしれません。お店で、お昼ご飯を食べてるのかもしれません。自分で、自分のために作って食べるのかもしれません。
シチュエーションも、料理も千差万別で、あらゆるものが同じなんて状況の方が、むしろ少ないというか、不自然ですらあります。他愛もない一食であるかもしれないけど、おそらく、そのシチュエーションで、そのご飯を食べることには、なにがしかの物語がないはずはありません。
人は、それをエッセイとして書きます。
『味見したい本』 木村衣有子 ちくま文庫 ¥ 799 読むだけで目の前に料理や酒が現れるような食の本に巡るエッセイ |
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でも、この本は違うんです。人が「食べるということについて書く」のではなく、「人が食べるということについて書いた本について書く」ということなんです。
だからこれは、食べ物について書いた本ではないんですね。その食べ物について書いた人であったり、その人の生き方であったり、時代であったり、場所であったりって、そういうことについて書いた本なんですね。
食べ物について語ろうとすると、人間、いろいろな側面を文章にさらしてしまいます。そう言えば、ずいぶん昔の話になってしまいますが、『傷だらけの天使』というテレビドラマがありました。すごい人気がありましたね。その中で、差配使役の岸田今日子のセリフに、「食事しているところをみられるのは、ベッドを覗かれるよりも嫌」というのがありました。
高校生の私は、ベッドの上で何が行われているのか、まだ知らないままに、何だか納得をしておりました。未だにそのセリフを忘れていないところを見ると、何かしらの共感を覚えたのではなかったかと思われます。
ものの食い方というのは、お里が知れますね。母親の作ったものを食べて大きくなったんですから、当たり前ですね。だから、ものを食うことを思うと、自然と母のことを思い出してしまいます。母にまつわる食べ物の思い出の一つに、おむすびに関わるものがあります。
高校生の時分、山に登るときはいつもおむすびを作ってもらっていました。大きなやつを五つくらい持って行きました。ある時、途中で、高校生の女の子たちのグループと知り合って、お昼を一緒に食べました。何やら、急に来れなくなった人もいて、お昼ごはんが余ってしまいそうなので、食べてほしいとのこと。もちろん協力しました。しかし、そのせいで、母に作ってもらったおむすびを、食べきれなくなってしまったんです。最後の一つがどうしても・・・。母は、私が、母の作ったものなら何でも残さずに食べることを、いつも喜んでくれてました。その母の作ったおむすびを、食べきれずに残して帰ることができずに、私はそれを、近所の押掘川に投げ捨てました。
ああ、・・・帰ってから、母の顔をしっかり見ることができませんでした。
やはり、ものを食べることを想うと、なんか恥ずかしい。ベッドを覗かれるほどではないけれど・・・。
そんな恥ずかしさ、嬉しさ、悲しさ、愛おしさを書いたものなら、読んだ者は、それなりの感慨を抱くのが当たり前です。そんな本の、水先案内をしているのが、この“食書評エッセイ”ということになるんでしょうか。

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