『一神教と戦争』 橋爪大三郎 中田考
対談ものの本なんですけど、橋爪大三郎さんと中田考さんっていう組み合わせです。・・・私には、それだけでものすごい。
このご時世では、どうしても「中田考さんの方が受けて立つって感じになるのかな」なんて考えていたんですけど、決してそんなことないんです。相手の発言に対して、とっても純真に自分の知識のありったけをぶつけてみて、そこに化学反応が起こるのを、お互いが期待しているかのようなやり取りなんです。
この対談、まず、対談している二人が一番楽しんでいるのが分かります。
この本は、戦争を一つのテーマにしています。題名が『一神教と戦争』ですから、イスラム教徒にとっての戦争ってだけじゃなくて、キリスト教徒にとっての戦争も取り上げられるわけですが、どうしてもこのご時世から、“イスラム教”の方に重み、厚みがかかって来るんじゃないかって思ってたんです。
だけど、決してそうじゃないんです。キリスト教に関して、あらためて教えられることが、この本にはたくさんありました。
《キリスト教徒はなぜ戦争がうまいのか》
これはこの本の主たるテーマでもあります。《複数の主権国家が競い合い、社会変革、技術革新と結びついた強大な軍事力が、ナショナリズムをともなって戦争の規模を拡大させていった》ということになるわけですが、では、「主権国家とはなにか」、「ナショナリズムとは何か」ってことを考えていくと、けっこう深く掘り下げなければならないもんなんですね。そしてその中で、主権国家としてまとまりやすいキリスト教社会と、主権国家になじまないイスラム教社会ってあたりが見えてきます。


「問題は、イスラム教社会にある」
それが前提ではないんですね。むしろ、「キリスト教社会にある」と考える方がはるかに自然です。なにしろ、キリスト教国家群が、近代以降の世界をリードして、今の世界があるわけですから。
中でも気になるのが、非キリスト教文明に対する猜疑心ですね。「理解できない」、「疑わしい」、「危険だ」という目を向けられる側は大変です。
だからこそ、相手に差別的な条約を押し付けて、自分の安全と利益だけは確保しようとしますよね。「受け入れなければ、力づくで」っていうのに対する危機感が、日本社会を押し流したのが明治維新でした。
今の世界、ヨーロッパやアメリカで、イスラム教徒に向けられている“目”も、同じですね。ヨーロッパ的な市民主義の原則に合致しない指向の原理や行動様式を持っているってことに対して、大きな猜疑心が向けられています。
ヨーロッパからしてみると、ロシアもそう、インドも、“中国”もそうですね。・・・もちろん、日本もです。日本は第二次世界大戦でやっつけましたけどね。
自分を基準にして、その基準に合致しない者たちに猜疑心の目を向け、警戒していくわけです。ぎすぎすしない筈がありません。
でも、ヨーロッパやアメリカにおいて、その基準を押し付ける力が弱まってきています。それだけに、今の世界は安定感に欠けますね。19世紀の上下関係は圧倒的で、対有色人種であれば、人間扱いさえしていないほどでした。
今は、“テロとの戦争”が流行りですね。アメリカのブッシュ大統領が、“テロとの戦争”という大義名分で戦争を始めました。これは使い勝手のいい言葉で、喜んだのはロシアと“中国”でしたね。ソ連崩壊以降、独立の機運を高めるチェチェンを叩き潰したロシアは、この戦いを“テロとの戦争”と位置付けることができました。
“中国”はもっとひどい、東トルキスタン、ウイグル人に対する民族浄化を、“テロとの戦争”として正当化しようとしてますからね。果ては、アサドまでが、毒ガス攻撃を“テロとの戦争”と・・・。じつはこの事態も、欧米が自分の基準を、自分が猜疑心を抱く者たちに押し付けてきたってことの延長線上にあるんじゃないでしょうか。しかも、その責任を、いまや彼らは取れないでしょう。
ああ、この記事を書いていてもそう。他の本を読みながらなんですけど、この本はずいぶん時間をかけて詠みました。二人の対談のおこす化学反応は、読者にも影響を与えておりました。私なんか、もろにそれを食らってしまったんですが、いちいち立ち止まって、考えさせられてしまうんです。・・・上記のようなことを。
そして、お二人は、何の結論も出していません。ただ、考えさせられる種だけ植え付けてね。
一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
このご時世では、どうしても「中田考さんの方が受けて立つって感じになるのかな」なんて考えていたんですけど、決してそんなことないんです。相手の発言に対して、とっても純真に自分の知識のありったけをぶつけてみて、そこに化学反応が起こるのを、お互いが期待しているかのようなやり取りなんです。
この対談、まず、対談している二人が一番楽しんでいるのが分かります。
この本は、戦争を一つのテーマにしています。題名が『一神教と戦争』ですから、イスラム教徒にとっての戦争ってだけじゃなくて、キリスト教徒にとっての戦争も取り上げられるわけですが、どうしてもこのご時世から、“イスラム教”の方に重み、厚みがかかって来るんじゃないかって思ってたんです。
だけど、決してそうじゃないんです。キリスト教に関して、あらためて教えられることが、この本にはたくさんありました。
《キリスト教徒はなぜ戦争がうまいのか》
これはこの本の主たるテーマでもあります。《複数の主権国家が競い合い、社会変革、技術革新と結びついた強大な軍事力が、ナショナリズムをともなって戦争の規模を拡大させていった》ということになるわけですが、では、「主権国家とはなにか」、「ナショナリズムとは何か」ってことを考えていくと、けっこう深く掘り下げなければならないもんなんですね。そしてその中で、主権国家としてまとまりやすいキリスト教社会と、主権国家になじまないイスラム教社会ってあたりが見えてきます。
『一神教と戦争』 橋爪大三郎 中田考 集英社新書 ¥ 929 これほど緊張感に満ちた、火花の出るような対談を読んだのは、実に久方ぶりであった |
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「問題は、イスラム教社会にある」
それが前提ではないんですね。むしろ、「キリスト教社会にある」と考える方がはるかに自然です。なにしろ、キリスト教国家群が、近代以降の世界をリードして、今の世界があるわけですから。
中でも気になるのが、非キリスト教文明に対する猜疑心ですね。「理解できない」、「疑わしい」、「危険だ」という目を向けられる側は大変です。
だからこそ、相手に差別的な条約を押し付けて、自分の安全と利益だけは確保しようとしますよね。「受け入れなければ、力づくで」っていうのに対する危機感が、日本社会を押し流したのが明治維新でした。
今の世界、ヨーロッパやアメリカで、イスラム教徒に向けられている“目”も、同じですね。ヨーロッパ的な市民主義の原則に合致しない指向の原理や行動様式を持っているってことに対して、大きな猜疑心が向けられています。
ヨーロッパからしてみると、ロシアもそう、インドも、“中国”もそうですね。・・・もちろん、日本もです。日本は第二次世界大戦でやっつけましたけどね。
自分を基準にして、その基準に合致しない者たちに猜疑心の目を向け、警戒していくわけです。ぎすぎすしない筈がありません。
でも、ヨーロッパやアメリカにおいて、その基準を押し付ける力が弱まってきています。それだけに、今の世界は安定感に欠けますね。19世紀の上下関係は圧倒的で、対有色人種であれば、人間扱いさえしていないほどでした。
今は、“テロとの戦争”が流行りですね。アメリカのブッシュ大統領が、“テロとの戦争”という大義名分で戦争を始めました。これは使い勝手のいい言葉で、喜んだのはロシアと“中国”でしたね。ソ連崩壊以降、独立の機運を高めるチェチェンを叩き潰したロシアは、この戦いを“テロとの戦争”と位置付けることができました。
“中国”はもっとひどい、東トルキスタン、ウイグル人に対する民族浄化を、“テロとの戦争”として正当化しようとしてますからね。果ては、アサドまでが、毒ガス攻撃を“テロとの戦争”と・・・。じつはこの事態も、欧米が自分の基準を、自分が猜疑心を抱く者たちに押し付けてきたってことの延長線上にあるんじゃないでしょうか。しかも、その責任を、いまや彼らは取れないでしょう。
ああ、この記事を書いていてもそう。他の本を読みながらなんですけど、この本はずいぶん時間をかけて詠みました。二人の対談のおこす化学反応は、読者にも影響を与えておりました。私なんか、もろにそれを食らってしまったんですが、いちいち立ち止まって、考えさせられてしまうんです。・・・上記のようなことを。
そして、お二人は、何の結論も出していません。ただ、考えさせられる種だけ植え付けてね。

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