『山行記』 南木佳士
ちょっと前に、本屋さんの、文庫本が並べられた棚をボーッと見ていて、たまたま『草すべり』という本を見つけました。もしかしたら、浅間山の“草すべり”かなって思って、買って帰って読みました。そしたら案の定、浅間山の“草すべり”でした。
著者の南木佳士さんは、一九八〇年代に作家として表舞台に上がったお医者さんで、一時期、パニック障害、うつ病を患われているんですね。山登りは、そのリハビリの一つでもあったようです。そのうち自分が登った山の話を書くようになって、『草すべり』が出版されることになるんですね。
お住まいになっているのが佐久市ということです。うらやましいです。北八ヶ岳あたりなら、朝起きて、その日の天気がいいのを確認してから出かけて充分だっていうんですから。
私事ですが、二〇一六年、五六歳の時に、左股関節の骨頭の置換手術を受けました。手術はうまくいって、人によりけりのところもあるかもしれませんが、まったく足の痛みのない生活を、今、私は送っています。
足が悪いのは子どものころからですが、特に手術前の一〇年ほどは、かなり厳しかったです。中でも最後の三年間は、痛かったです。夜、痛みで目が覚めるんです。目を覚まさないまでも、「痛い、痛い」って言ってるんだそうです。それに、同じような夢を見るんですが、いつも、同行者においていかれる夢なんです。私は足が痛くてついていけなくて、「待ってくれ」って呼びかけたいのに、声が出ないんです。一生懸命、声を出そうとして、「うわーっ」って叫んで目が覚めるんです。
連れ合いは、となりに寝てて、気が気じゃなかったでしょう。歩いている途中で、痛くなることがあるから、仕事以外の外出は、だいたい連れ合い同伴です。一度、「土手を歩きに行きたい」って言ったとき、なんか都合が悪かったんですね。だったら一人で行くっていう私を止めようとする連れ合いに、「一人で家にいると、世の中を呪いたくなる」って言ったことがあるんです。それからは、いつも私を最優先にしてくれました。
第二編の《何度でも浅間山》に、、著者の病状が回復して一人で山を飛び回るようになると、闘病中、ずっと著者を支えた奥さまが、“憂鬱”にとらわれてしまう状況になったという話を読んで、とても他人事とは思えませんでした。


『草すべり』は、他に「旧盆」、「バカ尾根」、「穂高山」からなる短編集で、「穂高山」以外は、いずれも浅間山が舞台になってました。いずれも、一歩で足の大きさの分だけ、ゆっくりと進んでいく登山者の、土に登山靴をけり込む音が聞こえてくるような、生々しさがありました。
その理由が、この本を読んでわかりました。
著者は、この『山行記』のなかに、頻繁に、《わたし》を書きこんでいます。病気だったときの《わたし》、笠ヶ岳にいた《わたし》、西鎌尾根であえいでいた《わたし》、槍ヶ岳の梯子に取り付《わたし》、く妻を置き去りにした《わたし》、北岳のテント場で不眠に悩まされた《わたし》、雨の中を歩き霧が晴れて農取が見えて歓声を上げる《わたし》、どれもが同一の《わたし》であって、すべてが違う《わたし》なんですね。
その一人一人の《わたし》を取り戻すために、著者はこれらの『山行記』を書いたんだそうです。だから、そこに表現される《わたし》は、今まさに笠ヶ岳にいた《わたし》、西鎌尾根であえいでいた《わたし》、槍ヶ岳の梯子に取り付《わたし》なわけです。そんな《わたし》を書かれた文章を読むと、まるでそれが、私のことであるかのように感じてしまいます。
いずれも、かつて歩いたことのある道です。三〇年ほど前の話ですが・・・。それだけにその状況が目に浮かぶんです。そして今、私の体力は、おそらく、この本の《わたし》と、そう変わらないだろうと思います。そんな状況が、なおのこと、そう思わせるのかもしれません。
連れ合いは、“登山”というのは、ちょっと厳しいかもしれません。一緒に槍ヶ岳とかは、想像できません。だけど、小梨平にテントを張って、徳本峠まで空身で登って、槍穂高の絶景を拝むことくらいはできるんじゃないかと思います。そんなところを丁寧に見つけて、私なりの感謝の気持ちを伝えたいもんですね。
一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
著者の南木佳士さんは、一九八〇年代に作家として表舞台に上がったお医者さんで、一時期、パニック障害、うつ病を患われているんですね。山登りは、そのリハビリの一つでもあったようです。そのうち自分が登った山の話を書くようになって、『草すべり』が出版されることになるんですね。
お住まいになっているのが佐久市ということです。うらやましいです。北八ヶ岳あたりなら、朝起きて、その日の天気がいいのを確認してから出かけて充分だっていうんですから。
私事ですが、二〇一六年、五六歳の時に、左股関節の骨頭の置換手術を受けました。手術はうまくいって、人によりけりのところもあるかもしれませんが、まったく足の痛みのない生活を、今、私は送っています。
足が悪いのは子どものころからですが、特に手術前の一〇年ほどは、かなり厳しかったです。中でも最後の三年間は、痛かったです。夜、痛みで目が覚めるんです。目を覚まさないまでも、「痛い、痛い」って言ってるんだそうです。それに、同じような夢を見るんですが、いつも、同行者においていかれる夢なんです。私は足が痛くてついていけなくて、「待ってくれ」って呼びかけたいのに、声が出ないんです。一生懸命、声を出そうとして、「うわーっ」って叫んで目が覚めるんです。
連れ合いは、となりに寝てて、気が気じゃなかったでしょう。歩いている途中で、痛くなることがあるから、仕事以外の外出は、だいたい連れ合い同伴です。一度、「土手を歩きに行きたい」って言ったとき、なんか都合が悪かったんですね。だったら一人で行くっていう私を止めようとする連れ合いに、「一人で家にいると、世の中を呪いたくなる」って言ったことがあるんです。それからは、いつも私を最優先にしてくれました。
第二編の《何度でも浅間山》に、、著者の病状が回復して一人で山を飛び回るようになると、闘病中、ずっと著者を支えた奥さまが、“憂鬱”にとらわれてしまう状況になったという話を読んで、とても他人事とは思えませんでした。
『山行記』 南木佳士 文春文庫 ¥ 724 芥川賞受賞の翌年に心身を病んだ作家兼医師が、五十歳で山登りを始めた |
|
『草すべり』は、他に「旧盆」、「バカ尾根」、「穂高山」からなる短編集で、「穂高山」以外は、いずれも浅間山が舞台になってました。いずれも、一歩で足の大きさの分だけ、ゆっくりと進んでいく登山者の、土に登山靴をけり込む音が聞こえてくるような、生々しさがありました。
その理由が、この本を読んでわかりました。
著者は、この『山行記』のなかに、頻繁に、《わたし》を書きこんでいます。病気だったときの《わたし》、笠ヶ岳にいた《わたし》、西鎌尾根であえいでいた《わたし》、槍ヶ岳の梯子に取り付《わたし》、く妻を置き去りにした《わたし》、北岳のテント場で不眠に悩まされた《わたし》、雨の中を歩き霧が晴れて農取が見えて歓声を上げる《わたし》、どれもが同一の《わたし》であって、すべてが違う《わたし》なんですね。
その一人一人の《わたし》を取り戻すために、著者はこれらの『山行記』を書いたんだそうです。だから、そこに表現される《わたし》は、今まさに笠ヶ岳にいた《わたし》、西鎌尾根であえいでいた《わたし》、槍ヶ岳の梯子に取り付《わたし》なわけです。そんな《わたし》を書かれた文章を読むと、まるでそれが、私のことであるかのように感じてしまいます。
いずれも、かつて歩いたことのある道です。三〇年ほど前の話ですが・・・。それだけにその状況が目に浮かぶんです。そして今、私の体力は、おそらく、この本の《わたし》と、そう変わらないだろうと思います。そんな状況が、なおのこと、そう思わせるのかもしれません。
連れ合いは、“登山”というのは、ちょっと厳しいかもしれません。一緒に槍ヶ岳とかは、想像できません。だけど、小梨平にテントを張って、徳本峠まで空身で登って、槍穂高の絶景を拝むことくらいはできるんじゃないかと思います。そんなところを丁寧に見つけて、私なりの感謝の気持ちを伝えたいもんですね。

- 関連記事