『死生論』 曽野綾子
ずい分前だけど、西部邁さんの『死生論』という本を読みました。
題名に、そのまま“死生”という言葉がついていると、なんだかやっぱり異様です。死んだ人が“死生”を見つめると、主に“生”を見つめることになるんでしょうが、生きている人間が“死生”を見つめると、それはやはり“死”を、余分に見つめることになると思うんです。
西部さんの本も、しっかり意識に残ってるわけじゃないんですが、“死”をどう捉えるかという本だったように思います。一九九四年の本ですね。私は個人的に悩み多い頃だったんですが、本音を言うと、“死”を考えるというのは、個人的には怖くて嫌なんですが、当時、話題になっていた、がんの告知、尊厳死、脳死、臓器移植について、西部さんの考えを知りたくて読みました。
だけど、それらのことよりも、記憶に残っているのは、この本の中で、西部さんが自殺を意思的な死として、肯定していたということです。そして、その考えの通り、西部さんは二〇一七年に、意思的な死を実行に移して亡くなりました。
曽野綾子さんは、西部さんのように、自分の意識で死を選び、それを実行に移すということはないでしょう。キリスト者ですからね、曽野綾子さんは。でも、ずいぶんと“死”に近寄りすぎているように思います。
ちょっと、心配です。
長い高校での教員生活の中で、何度か生死に関わる問題に遭遇しました。それらの中で、二人ほど、“死”に、自分から近づきすぎた生徒がいました。近づきすぎた理由は、いじめであったり、容貌に関する劣等感であったり、複合的なものだと思います。だけど、いったん近づきすぎた“死”に、その子たちはとらわれて、逃れられなくなっちゃったんです。
一人の子は卒業しましたが、“死”にとらわれた生活からようやく抜け出すことができたのは、高校を卒業して一〇年も過ぎてからのことであったようです。もう一人は、高校を卒業する前に、自分でけりをつけてしまいました。


《少人数の特殊部隊が目的を果たして基地に帰投した場面で、最後の場面は立った二つの言葉で締めくくられていた。「ミッション・コンプリート」(任務完了)という意味だ。私はこの簡潔な表現に思いがけず感動した。私が死んだとき、誰かが私の胸の上に、手書きで書いたこの言葉を載せてくれないかと思う。人間の任務は、キリスト教の私から言うと、神から与えられた任務だ。どんなに小さなものでも、汚れたものでもいい。神からの命令はどれも重く、深い意味がある》(p56)
《人間として生まれたかった魂は他にも数限りなくあって、「私」はその中の途方もなく幸運な一人だった、という説を読んだことがあるが、そうした現世に生きているうちには分からなかったカラクリが、生死の境目に、一瞬にせよ明確に見えたら、それはまた途方もないドラマに立ち会えることになるだろう。私は現世の一部を味わって生きた。しかし真実の意味は、少しも分かっていなかったとも思えるのである》(p62)
《物が多いのは、要るものと要らないものとの仕分けができていないからだ。私は昔より少しそれがうまくなった、と思ってはいる。死に際になったら、もっと瞬時にそれができるようになる筈だ。ならなくても、すべては要らないものになる、ということが分かる。人間に生きる時間が与えられているということは、そんな単純なことさえまだわかっていないからだ。だから自殺はいけない》(p80)
っていうような具合なんです。曽野綾子さんはキリスト者ですからね。自殺なんてしないと思います。だけど、ご自身の命の終わる瞬間を、「楽しみにしている」というか、「心待ちにしている」ってのは、何だか間違いないように思えるんです。
今生きていることよりも、やがて死ぬ時を心待ちに生きるって、今の私には、とてもその心境にはなれそうもありません。私は死ぬその直前まで、明日はそんな面白いことをやろうか考えている方がいいです。
一喜一憂。ぜひポンとひと押しお願いします。
題名に、そのまま“死生”という言葉がついていると、なんだかやっぱり異様です。死んだ人が“死生”を見つめると、主に“生”を見つめることになるんでしょうが、生きている人間が“死生”を見つめると、それはやはり“死”を、余分に見つめることになると思うんです。
西部さんの本も、しっかり意識に残ってるわけじゃないんですが、“死”をどう捉えるかという本だったように思います。一九九四年の本ですね。私は個人的に悩み多い頃だったんですが、本音を言うと、“死”を考えるというのは、個人的には怖くて嫌なんですが、当時、話題になっていた、がんの告知、尊厳死、脳死、臓器移植について、西部さんの考えを知りたくて読みました。
だけど、それらのことよりも、記憶に残っているのは、この本の中で、西部さんが自殺を意思的な死として、肯定していたということです。そして、その考えの通り、西部さんは二〇一七年に、意思的な死を実行に移して亡くなりました。
曽野綾子さんは、西部さんのように、自分の意識で死を選び、それを実行に移すということはないでしょう。キリスト者ですからね、曽野綾子さんは。でも、ずいぶんと“死”に近寄りすぎているように思います。
ちょっと、心配です。
長い高校での教員生活の中で、何度か生死に関わる問題に遭遇しました。それらの中で、二人ほど、“死”に、自分から近づきすぎた生徒がいました。近づきすぎた理由は、いじめであったり、容貌に関する劣等感であったり、複合的なものだと思います。だけど、いったん近づきすぎた“死”に、その子たちはとらわれて、逃れられなくなっちゃったんです。
一人の子は卒業しましたが、“死”にとらわれた生活からようやく抜け出すことができたのは、高校を卒業して一〇年も過ぎてからのことであったようです。もう一人は、高校を卒業する前に、自分でけりをつけてしまいました。
『死生論』 曽野綾子 人間には自分が果たすべきだった任務を果たして死ぬという大きな使命がある |
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《少人数の特殊部隊が目的を果たして基地に帰投した場面で、最後の場面は立った二つの言葉で締めくくられていた。「ミッション・コンプリート」(任務完了)という意味だ。私はこの簡潔な表現に思いがけず感動した。私が死んだとき、誰かが私の胸の上に、手書きで書いたこの言葉を載せてくれないかと思う。人間の任務は、キリスト教の私から言うと、神から与えられた任務だ。どんなに小さなものでも、汚れたものでもいい。神からの命令はどれも重く、深い意味がある》(p56)
《人間として生まれたかった魂は他にも数限りなくあって、「私」はその中の途方もなく幸運な一人だった、という説を読んだことがあるが、そうした現世に生きているうちには分からなかったカラクリが、生死の境目に、一瞬にせよ明確に見えたら、それはまた途方もないドラマに立ち会えることになるだろう。私は現世の一部を味わって生きた。しかし真実の意味は、少しも分かっていなかったとも思えるのである》(p62)
《物が多いのは、要るものと要らないものとの仕分けができていないからだ。私は昔より少しそれがうまくなった、と思ってはいる。死に際になったら、もっと瞬時にそれができるようになる筈だ。ならなくても、すべては要らないものになる、ということが分かる。人間に生きる時間が与えられているということは、そんな単純なことさえまだわかっていないからだ。だから自殺はいけない》(p80)
っていうような具合なんです。曽野綾子さんはキリスト者ですからね。自殺なんてしないと思います。だけど、ご自身の命の終わる瞬間を、「楽しみにしている」というか、「心待ちにしている」ってのは、何だか間違いないように思えるんです。
今生きていることよりも、やがて死ぬ時を心待ちに生きるって、今の私には、とてもその心境にはなれそうもありません。私は死ぬその直前まで、明日はそんな面白いことをやろうか考えている方がいいです。

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