一神教の形『古代オリエントの神々』 小林登志子
古代エジプトでは、第五王朝(前二四七九~前二三二二)から、太陽神ラーを国家神としていた。そのラーの地位を脅かした異端の太陽神がアテンであった。
海と砂漠に囲まれたエジプトに、想定していなかった多民族が侵入する。ヒクソスと呼ばれる民である。前十八世紀中頃のことで、前一六五〇年に第十五王朝を立て、エジプト新王国によって排除される前一五四二年までエジプトを支配する。
ヒクソスとはエジプト語で「異国の支配者たち」という意味を持つらしい。同時に、複合弓や三日月刀などの新しい武器や二輪戦車を駆使して侵攻し、ナイル・デルタ地方を中心に支配したアジア系支配者たちの総称である。
ヒクソスを排除してエジプト人の支配を取り戻したエジプト新王国が第十八王朝(前一五五〇~前一二九二)となる。異民族の侵入を退けた十八王朝は、国策を一新させた。シリア・パレスティナ地方を植民地とする帝国主義政策を採用し、エジプトは本格的に古代オリエント史に参入することになる。こうした状況の中で、エジプト人は外国の神についても知ることになる。
ヒエログリフが使われるエジプトから、アマルナ文書と呼ばれる、三六〇枚余の楔形文字の粘土板が発見されている。ほとんどはアッカド語で書かれた手紙で、発見されたアマルナは、古代の都アケト・アテン(アテン神の地平線)であった。
アケト・アテンに都が置かれたアマルナ時代は、第十八王朝のアメンホテプ三世の治世末年からツタンカーメンの治世一年までの約二〇年間で、大部分はアメンホテプ四世の時代にあたる。
アマルナ文書は、シリア・パレスティナ地方に進出したエジプトと、その周辺諸国との外交を明らかにすることになった。ヒッタイトの力が強大化するなかで、シリア北部はミタンニの、南部とパレスティナがエジプトの支配下に入ることになり、ミタンニの王女たちがエジプト王家に輿入れした。アメンホテプ三世の母ムテミアはミタンニの王女で、王の後宮にもミタンニの王女ギル・ヘパやタドゥ・ヘパが嫁いでいた。


エジプトに旅をしたのはミタンニの王女たちだけではなく、女神像もまた旅をした。女神像がミタンニ王トゥシュラッタからアメンホテプ三世に貸与されたのは、アメンホテプ三世の治世晩年のことで、王は病に伏せていた。当時ミタンニの支配下にあったニネヴェのシャウシュガ女神は病気治癒に霊験あらたかで知られており、その女神像をエジプトに送ったのである。
第十八王朝の国家神は、アメン・ラーである。アメン神はテーベの地方神で、第十二王朝の始祖アメンエムハト一世が祀っていたことから王朝の守護神となり、ラーと習合してアメン・ラーとなる。
ラーはギリシャ語で太陽の都を意味するヘリオポリスで祀られていた太陽神で、日輪をいただく隼頭の人物像として表現され、第五王朝から国家神となった。ラーに使えるヘリオポリスの神官たちは、王権に対してラーの優位を確立しようと画策した。ファラオが“ラーの子”とされるようになるのは、この第五王朝からである。
第十八王朝時代時代になると、アメン神の権勢は頂点に達する。神の力が大きくなるということは、その神を祀る神官団が絶大な権力を持つということであった。
山犬頭のアヌビス神、猫頭のバステト女神のように、エジプトでは多数の動物頭の神々が祀られてきた。これらはエジプト独自の神々で、他では見られない特異なものである。しかし、国際化する第十八王朝の時代になると、神々の様子にも変化が見られるようにある。
寄進による財力でキングメーカーにまで成り上がった神官団に対し、絶対君主制を志向してきたアメンホテプ四世は、神官団の力を抑え、王権による国家の一元的支配を目指した。そのための行われたのが宗教改革である。アメン神及びその神官団の力を押さえるために王家で育成されたのがアテン神であった。
アテンは元来、太陽そのものを指す名称で、光線を発する日輪で表現される。動物頭に人間の体で表現される神が多いエジプトでは、特異な存在であった。アメンホテプ四世の宗教改革は、アメン神以下数多の神々の信仰をやめ、アテン神のみを信仰することを王が主導し、民衆に強制したできごとを指す。
王は、「アメン神は満足する」という意味のアメンホテプから、「アテン神にとって有益な者」という意味のアクエンアテンに改名し、アメン神の都テーベからアケド・アテンに遷都した。アテン神はラーの新しい姿と説明され、ラーだけは最後まで否定されなかった。
アクエンアテンは国家神アメンだけでなく、他のエジプトの神々まで、ラーを除く全ての神を否定した。そのため王の試みは失敗した。内政の混乱と外政の破綻を招いたアテン神は国家神として失格とされた。その混乱期に即位したのがツタンカーメンである。元の名はトゥット・アンク・アテン=「アテンの生きる似姿」であったものを、アテン信仰と距離を置くため、トゥット・アンク・アメン=「アメン神の生きる似姿」に変えている。王宮もアケト・アテンからメンフィスに移し、アケト・アテンは捨てられた。
アテン神信仰は、ある意味で一神教であった。一神教は、古代オリエント世界に現れた宗教の形態で、古代イスラエル人がその歴史の途中で採用し、純化、発展させていった民族宗教である。基本的には、複数の神々を信じる多神教に対して、一柱の神を信じる宗教を一神教と定義する。
しかし、一神教とは言っても、いくつかのパターンがある。例えば、他の神々の存在そのものは前提にしながら、特定の一柱の神しか信仰しないというパターンを拝一神教といい、多神教の特殊な例と捉えることもできる。『旧約聖書』には、「主はすべての神々にまさって偉大であった」と記された部分があり、他の民族には他の神々がいることを前提としていることから、当初、ヤハウェ信仰は拝一神教であったと考えられる。
また、多神教の中で、特定の神が最高神の地位を獲得し、唯一至上の神のようにみなされているのを単一神教という。古代エジプトのアテン神信仰は単一神教である。
さらに、唯一絶対の神しか認めず、他の神々への信仰を唯一神教といい、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「アブラハムの宗教」がこれにあたる。
アクエンアテン、アメンホテプ四世の初めた宗教改革による混乱は、第十八王朝最後の王、将軍あがりホレムヘブによって収集された。国家神アテンは否定されたものの、アテン信仰そのものは否定されず、アテンは神々の一柱に戻った。
海と砂漠に囲まれたエジプトに、想定していなかった多民族が侵入する。ヒクソスと呼ばれる民である。前十八世紀中頃のことで、前一六五〇年に第十五王朝を立て、エジプト新王国によって排除される前一五四二年までエジプトを支配する。
ヒクソスとはエジプト語で「異国の支配者たち」という意味を持つらしい。同時に、複合弓や三日月刀などの新しい武器や二輪戦車を駆使して侵攻し、ナイル・デルタ地方を中心に支配したアジア系支配者たちの総称である。
ヒクソスを排除してエジプト人の支配を取り戻したエジプト新王国が第十八王朝(前一五五〇~前一二九二)となる。異民族の侵入を退けた十八王朝は、国策を一新させた。シリア・パレスティナ地方を植民地とする帝国主義政策を採用し、エジプトは本格的に古代オリエント史に参入することになる。こうした状況の中で、エジプト人は外国の神についても知ることになる。
ヒエログリフが使われるエジプトから、アマルナ文書と呼ばれる、三六〇枚余の楔形文字の粘土板が発見されている。ほとんどはアッカド語で書かれた手紙で、発見されたアマルナは、古代の都アケト・アテン(アテン神の地平線)であった。
アケト・アテンに都が置かれたアマルナ時代は、第十八王朝のアメンホテプ三世の治世末年からツタンカーメンの治世一年までの約二〇年間で、大部分はアメンホテプ四世の時代にあたる。
アマルナ文書は、シリア・パレスティナ地方に進出したエジプトと、その周辺諸国との外交を明らかにすることになった。ヒッタイトの力が強大化するなかで、シリア北部はミタンニの、南部とパレスティナがエジプトの支配下に入ることになり、ミタンニの王女たちがエジプト王家に輿入れした。アメンホテプ三世の母ムテミアはミタンニの王女で、王の後宮にもミタンニの王女ギル・ヘパやタドゥ・ヘパが嫁いでいた。
一神教の形『古代オリエントの神々』 小林登志子 中公新書 ¥ 1,015 さまざまな文明が興り、消えゆくなか、人がいかに神々とともに生きたかを描く |
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エジプトに旅をしたのはミタンニの王女たちだけではなく、女神像もまた旅をした。女神像がミタンニ王トゥシュラッタからアメンホテプ三世に貸与されたのは、アメンホテプ三世の治世晩年のことで、王は病に伏せていた。当時ミタンニの支配下にあったニネヴェのシャウシュガ女神は病気治癒に霊験あらたかで知られており、その女神像をエジプトに送ったのである。
第十八王朝の国家神は、アメン・ラーである。アメン神はテーベの地方神で、第十二王朝の始祖アメンエムハト一世が祀っていたことから王朝の守護神となり、ラーと習合してアメン・ラーとなる。
ラーはギリシャ語で太陽の都を意味するヘリオポリスで祀られていた太陽神で、日輪をいただく隼頭の人物像として表現され、第五王朝から国家神となった。ラーに使えるヘリオポリスの神官たちは、王権に対してラーの優位を確立しようと画策した。ファラオが“ラーの子”とされるようになるのは、この第五王朝からである。
第十八王朝時代時代になると、アメン神の権勢は頂点に達する。神の力が大きくなるということは、その神を祀る神官団が絶大な権力を持つということであった。
山犬頭のアヌビス神、猫頭のバステト女神のように、エジプトでは多数の動物頭の神々が祀られてきた。これらはエジプト独自の神々で、他では見られない特異なものである。しかし、国際化する第十八王朝の時代になると、神々の様子にも変化が見られるようにある。
寄進による財力でキングメーカーにまで成り上がった神官団に対し、絶対君主制を志向してきたアメンホテプ四世は、神官団の力を抑え、王権による国家の一元的支配を目指した。そのための行われたのが宗教改革である。アメン神及びその神官団の力を押さえるために王家で育成されたのがアテン神であった。
アテンは元来、太陽そのものを指す名称で、光線を発する日輪で表現される。動物頭に人間の体で表現される神が多いエジプトでは、特異な存在であった。アメンホテプ四世の宗教改革は、アメン神以下数多の神々の信仰をやめ、アテン神のみを信仰することを王が主導し、民衆に強制したできごとを指す。
王は、「アメン神は満足する」という意味のアメンホテプから、「アテン神にとって有益な者」という意味のアクエンアテンに改名し、アメン神の都テーベからアケド・アテンに遷都した。アテン神はラーの新しい姿と説明され、ラーだけは最後まで否定されなかった。
アクエンアテンは国家神アメンだけでなく、他のエジプトの神々まで、ラーを除く全ての神を否定した。そのため王の試みは失敗した。内政の混乱と外政の破綻を招いたアテン神は国家神として失格とされた。その混乱期に即位したのがツタンカーメンである。元の名はトゥット・アンク・アテン=「アテンの生きる似姿」であったものを、アテン信仰と距離を置くため、トゥット・アンク・アメン=「アメン神の生きる似姿」に変えている。王宮もアケト・アテンからメンフィスに移し、アケト・アテンは捨てられた。
アテン神信仰は、ある意味で一神教であった。一神教は、古代オリエント世界に現れた宗教の形態で、古代イスラエル人がその歴史の途中で採用し、純化、発展させていった民族宗教である。基本的には、複数の神々を信じる多神教に対して、一柱の神を信じる宗教を一神教と定義する。
しかし、一神教とは言っても、いくつかのパターンがある。例えば、他の神々の存在そのものは前提にしながら、特定の一柱の神しか信仰しないというパターンを拝一神教といい、多神教の特殊な例と捉えることもできる。『旧約聖書』には、「主はすべての神々にまさって偉大であった」と記された部分があり、他の民族には他の神々がいることを前提としていることから、当初、ヤハウェ信仰は拝一神教であったと考えられる。
また、多神教の中で、特定の神が最高神の地位を獲得し、唯一至上の神のようにみなされているのを単一神教という。古代エジプトのアテン神信仰は単一神教である。
さらに、唯一絶対の神しか認めず、他の神々への信仰を唯一神教といい、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の「アブラハムの宗教」がこれにあたる。
アクエンアテン、アメンホテプ四世の初めた宗教改革による混乱は、第十八王朝最後の王、将軍あがりホレムヘブによって収集された。国家神アテンは否定されたものの、アテン信仰そのものは否定されず、アテンは神々の一柱に戻った。

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