『穂高小屋番レスキュー日記』 宮田八郎
高校二年の夏休みに、奥秩父の甲武信小屋でアルバイトをさせてもらいました。朝、歩荷して、その後は、言いつけられた仕事をしてました。当時は、今みたいな山ブームじゃないからのんびりしたもんでした。夏休みでも、平日はお客さんも少なかったです。週末になると、さすがに混雑します。決まって、東京農大の方が手伝いに登ってきました。
週末のお客が引けたある月曜日、隣の三宝山の方から黒い煙が上がっていました。小屋番のおじさんに言われて駆けつけると、燃えたのはツェルトでした。火は消えていて、男の人が倒れて、うめいていました。
その人は、ツェルトから頭だけだして、固形燃料でお湯を沸かしていたんだそうです。その火が、ツェルトに引火しちゃったんですね。火のついたツェルトに背中をおおわれて、ひっくり返って火を消したようですが、見た目にも手と頭のやけどは大変そうでした。
ひっくり返って火を消している時に足を痛めたようで、おんぶして小屋に収容したのが、私の唯一の救援体験ですね。あっ、救援らしきものがもう一つありました。だから、二件ですね。救援されたのも二件だから、トントンですね。
大学一年、二年の頃、訳あって、山に逃げ込んでいたことがありました。穂高界隈も歩き回りましたが、穂高小屋は、何度も通ってるんだけど、中に入ったこともありませんでした。そこまで行くと、想いはすでに穂高山頂にあったり、涸沢岳山頂にあったり、涸沢ヒュッテの生ビールにあったりだったんでしょう。
三〇〇〇メートル超えてるんですからね。今考えりゃ、泊まっとけばよかったです。小屋にしろ、テントにしろ。だけど、一年のうちの半分を、この三〇〇〇m超えで過ごすというのは、ものすごく大変なことなんですね。よ~く分かりました。



漫画の『岳』の世界そのものじゃないですか。もちろん、漫画のように突出した個人に偏ったものではないけれども、まったく同じレスキューの世界が、穂高にはあるんですね。
著者の宮田八郎さんは一九六六年の生まれだそうですから、私の六歳下です。十代で穂高小屋に来たって言うから、おそらく高校を出てすぐってことでしょ。宮田さんが一八歳なら、私は二四歳。私はその一〇年後まで山に登っていて、毎年北アルプスに行ってたから、時代的に重なります。その頃には、レスキューの方でも、おそらくベテランの域に達していてんでしょうね。
宮田さんの文章は、美味いとか下手とかを超越して、想いにあふれています。通常、感情の溢れた文章を読むっていうのは、逆に読む者の心をしらけさせる事が多いですよね。でも、宮田さんの場合は、そうならないから不思議です。
実は私もそうなんです。このブログでも、恥ずかしげもなく文章を晒してますが、想いばかりが先行する稚拙な文章しか作り出せない自分が情けないです。
宮田さんの文章は、なぜ、相手をしらけさせないのか、それなりに考えました。使命感でしょうか。美味かろうが、下手だろうが、伝えるべきことは、なんとしても伝えなければならないっていう使命感。
山での事故は、どんなに用心しても、起こるときには起こる。だけど、用心することで防げる事故が圧倒的に多い。しっかり準備して、天気のいい時期を選んで、山の都合に合わせて、山を楽しんでほしい。そう伝えなければならないという使命感。
遭難者を救おうと、レスキューの世界に人生を捧げた男たちがいることを、あるいはそんな男たちがいたことを、それを知っている自分が伝えなければならないという使命感。
その使命感の前に、“しらける”なんてありえるはずもありません。
この間読んだ、『太陽のかけら』の、谷口けいさんのことも書かれてました。宮田さんは、自分がレスキューで関わった遭難者の死だけではなく、レスキュー仲間、アルピニスト、・・・山の仲間たちを、こんなにも多く、見送ってきたんですね。しかも、その宮田さんも、・・・。
この本の《あとがきにかえて》は、宮田八郎さんの奥さまによって書かれたものです。
週末のお客が引けたある月曜日、隣の三宝山の方から黒い煙が上がっていました。小屋番のおじさんに言われて駆けつけると、燃えたのはツェルトでした。火は消えていて、男の人が倒れて、うめいていました。
その人は、ツェルトから頭だけだして、固形燃料でお湯を沸かしていたんだそうです。その火が、ツェルトに引火しちゃったんですね。火のついたツェルトに背中をおおわれて、ひっくり返って火を消したようですが、見た目にも手と頭のやけどは大変そうでした。
ひっくり返って火を消している時に足を痛めたようで、おんぶして小屋に収容したのが、私の唯一の救援体験ですね。あっ、救援らしきものがもう一つありました。だから、二件ですね。救援されたのも二件だから、トントンですね。
大学一年、二年の頃、訳あって、山に逃げ込んでいたことがありました。穂高界隈も歩き回りましたが、穂高小屋は、何度も通ってるんだけど、中に入ったこともありませんでした。そこまで行くと、想いはすでに穂高山頂にあったり、涸沢岳山頂にあったり、涸沢ヒュッテの生ビールにあったりだったんでしょう。
三〇〇〇メートル超えてるんですからね。今考えりゃ、泊まっとけばよかったです。小屋にしろ、テントにしろ。だけど、一年のうちの半分を、この三〇〇〇m超えで過ごすというのは、ものすごく大変なことなんですね。よ~く分かりました。
『穂高小屋番レスキュー日記』 宮田八郎 山と渓谷社 ¥ 1,620 不慮の死を遂げてしまった彼は、「山で死んではいけない」というメッセージを書き残していた |
漫画の『岳』の世界そのものじゃないですか。もちろん、漫画のように突出した個人に偏ったものではないけれども、まったく同じレスキューの世界が、穂高にはあるんですね。
著者の宮田八郎さんは一九六六年の生まれだそうですから、私の六歳下です。十代で穂高小屋に来たって言うから、おそらく高校を出てすぐってことでしょ。宮田さんが一八歳なら、私は二四歳。私はその一〇年後まで山に登っていて、毎年北アルプスに行ってたから、時代的に重なります。その頃には、レスキューの方でも、おそらくベテランの域に達していてんでしょうね。
宮田さんの文章は、美味いとか下手とかを超越して、想いにあふれています。通常、感情の溢れた文章を読むっていうのは、逆に読む者の心をしらけさせる事が多いですよね。でも、宮田さんの場合は、そうならないから不思議です。
実は私もそうなんです。このブログでも、恥ずかしげもなく文章を晒してますが、想いばかりが先行する稚拙な文章しか作り出せない自分が情けないです。
宮田さんの文章は、なぜ、相手をしらけさせないのか、それなりに考えました。使命感でしょうか。美味かろうが、下手だろうが、伝えるべきことは、なんとしても伝えなければならないっていう使命感。
山での事故は、どんなに用心しても、起こるときには起こる。だけど、用心することで防げる事故が圧倒的に多い。しっかり準備して、天気のいい時期を選んで、山の都合に合わせて、山を楽しんでほしい。そう伝えなければならないという使命感。
遭難者を救おうと、レスキューの世界に人生を捧げた男たちがいることを、あるいはそんな男たちがいたことを、それを知っている自分が伝えなければならないという使命感。
その使命感の前に、“しらける”なんてありえるはずもありません。
この間読んだ、『太陽のかけら』の、谷口けいさんのことも書かれてました。宮田さんは、自分がレスキューで関わった遭難者の死だけではなく、レスキュー仲間、アルピニスト、・・・山の仲間たちを、こんなにも多く、見送ってきたんですね。しかも、その宮田さんも、・・・。
この本の《あとがきにかえて》は、宮田八郎さんの奥さまによって書かれたものです。

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