『秩父の低山』 守屋龍男
一昨日(八日)の晩、娘から電話があって、孫の五才児が熱を出して保育園に行けずにいるというんです。
翌九日、夫婦で車で一時間ほどの娘の家まで駆けつけました。ピンポ~ンとインターホンを鳴らすと、ダッダッダッダと、廊下を玄関に突進する音が聞こえてきます。ガチャと鍵の開く音が早いか、勢いよく扉が押し開けられます。ほぼ同時に、「じいちゃ~ん」と元気な声。危うく扉を避けながら、安堵の思いが広がります。
朝には下がっているものの、保育園に行ってから熱が上がることが続いたようです。保育園から言われて検査を受けたんだそうです。まあ、保育園にすれば当然のことですね。検査を受けて、特別な病気であるとか、感染するものであるとかではないものの、大事を取って様子を見ているということでした。
本に載っているクイズや迷路をやってみたり、トランプの神経衰弱、赤黒、七並べなんかをして遊びました。連れ合いの作ったお昼もよく食べました。数字やひらがなを覚えつつある中で、今の孫は自信に満ち溢れています。出来ないことを、これから出来るようになることと認識しているようです。
しりとりを始めると、ここに来て急激に言葉が増えています。ヒントをやると、ずいぶん続きました。小一時間も続きました。やがて、「く・・・くさいうんこ」、「に・・・にょろにょろうんこ」、「い・・・いろいろうんこ」と、なんでもかんでも「うんこ」になってしまって終わりになりました。
どうやら、明日(一〇日)は保育園に行けそうです。
今日、紹介するのは『秩父の低山』という本です。一九九〇年に出された本で、当然のように時価です。しかも、二〇一七年の一二月に一度紹介しています。あの頃は、この本に紹介されている武蔵野の低山の中でも、歩いていないところもたくさんありました。つまり、「この本を読んでこれから歩いてみるよ」という意味で紹介したんです。
二〇一六年一〇月下旬に股関節の手術を受けて、その後、三十代以降あきらめていた山歩きを再開しましたので、二〇一七年一二月は、まだまだ、恐る恐る歩いていると言っていい時期です。二〇一八年に入って始めたランニングのおかげで、その頃よりも一五キロほど体重が減りました。山歩いていても、身体が軽いです。
それもあって、ずいぶん歩きました。この本に紹介されている道のうち、若い頃に目を向けてなかった低山も、足の手術後に、ほぼ歩きました。でも、開発や採掘で、そのルート自体がなくなってしまっているところもあります。そんなわけで今回は、この本と秩父の低山を、それなりに味わってみた上で、この本の紹介と行きたいと思います。

秩父の低山は、あまりにも街に近いんです。資源を採掘して工業地帯に運ぶにも、とても便利なんです。武甲山の石灰岩はその象徴といっていいでしょう。荒川の砂利も運ばれました。都心に通えるくらい近いですから宅地開発も進みました。都心のゴルファーのために、いくつもの山が削られました。
“あとがき”にあるように、東京の巨大化に伴い、広大で自然豊かだった武蔵野も、恐ろしいほどの勢いで変貌を遂げつつあります。宅地化が進んだのは関東平野の末端だけでなく、そこから徐々に盛り上がる丘陵地に及びました。鳩山ニュータウン、飯能・日高分譲地などは、本来が関東平野から関東山地への最初の盛り上がりの場所でした。
そうした場所は、本来ならば、何千年も前と同じ自然の残っていたはずの場所です。それが、関東平野に隣接し、東京への便がいいという理由で切り倒され、掘り返されました。ゴルフ場がそこにたくさん作られたのも、同じ理由でしょう。
この本の著者の守屋龍男さんは、そのような“秩父の低山”の置かれた環境を理解した上で、未だに残る何千年前と同じ緑の雑木林や森、清冽な水のほとばしる川、滝に、大きな価値を見出してくれています。
それはかつて登山道ではなく、秩父と外秩父をつなぐ街道でした。秩父と名栗をつなぐ峠道でした。浦山と奥多摩に同じ文化を育む道でした。山の中にも人の営みがあって、お地蔵さまや石塔が人の往来を見つめていました。
著者はそんな面影をたどりながら、この道を歩いたんだろうと思います。その頃から、さらに三〇年を経て、“秩父の低山”はさらに変わってしまったかもしれません。
奥武蔵の山々は、かなり高いところまで林道が走っています。おそらく、昔から盛んだった林業のための道だったんでしょう。そのせいもあって、高校の頃は、逆に侮って、敬遠していました。秩父から奥の山々を目指すことが多かったので、奥武蔵や北武蔵、名栗の山々には歩いていない道がたくさんありました。
この一年半ほどの間に、守屋さんの紹介するコースをもとにして、私もいろいろな道を歩いてみました。これからも、この“秩父の低山”を生活圏としてきた人々を思いつつ、この気持のいい道を歩きたいと思います。
圏央道完成後、この地域は物流の拠点として見直され、あちこちに巨大倉庫が建てられています。これが、またも森を切り開き、丘を取り崩すことにつながることのないことを祈ります。
翌九日、夫婦で車で一時間ほどの娘の家まで駆けつけました。ピンポ~ンとインターホンを鳴らすと、ダッダッダッダと、廊下を玄関に突進する音が聞こえてきます。ガチャと鍵の開く音が早いか、勢いよく扉が押し開けられます。ほぼ同時に、「じいちゃ~ん」と元気な声。危うく扉を避けながら、安堵の思いが広がります。
朝には下がっているものの、保育園に行ってから熱が上がることが続いたようです。保育園から言われて検査を受けたんだそうです。まあ、保育園にすれば当然のことですね。検査を受けて、特別な病気であるとか、感染するものであるとかではないものの、大事を取って様子を見ているということでした。
本に載っているクイズや迷路をやってみたり、トランプの神経衰弱、赤黒、七並べなんかをして遊びました。連れ合いの作ったお昼もよく食べました。数字やひらがなを覚えつつある中で、今の孫は自信に満ち溢れています。出来ないことを、これから出来るようになることと認識しているようです。
しりとりを始めると、ここに来て急激に言葉が増えています。ヒントをやると、ずいぶん続きました。小一時間も続きました。やがて、「く・・・くさいうんこ」、「に・・・にょろにょろうんこ」、「い・・・いろいろうんこ」と、なんでもかんでも「うんこ」になってしまって終わりになりました。
どうやら、明日(一〇日)は保育園に行けそうです。
今日、紹介するのは『秩父の低山』という本です。一九九〇年に出された本で、当然のように時価です。しかも、二〇一七年の一二月に一度紹介しています。あの頃は、この本に紹介されている武蔵野の低山の中でも、歩いていないところもたくさんありました。つまり、「この本を読んでこれから歩いてみるよ」という意味で紹介したんです。
二〇一六年一〇月下旬に股関節の手術を受けて、その後、三十代以降あきらめていた山歩きを再開しましたので、二〇一七年一二月は、まだまだ、恐る恐る歩いていると言っていい時期です。二〇一八年に入って始めたランニングのおかげで、その頃よりも一五キロほど体重が減りました。山歩いていても、身体が軽いです。
それもあって、ずいぶん歩きました。この本に紹介されている道のうち、若い頃に目を向けてなかった低山も、足の手術後に、ほぼ歩きました。でも、開発や採掘で、そのルート自体がなくなってしまっているところもあります。そんなわけで今回は、この本と秩父の低山を、それなりに味わってみた上で、この本の紹介と行きたいと思います。
![]() | 『秩父の低山』 守屋龍男 けやき出版 ¥ 時価 ロマンにみちた峠、信仰の道、歴史の道をあるく。ロングセラー『多摩の低山』に続く第2弾 |
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秩父の低山は、あまりにも街に近いんです。資源を採掘して工業地帯に運ぶにも、とても便利なんです。武甲山の石灰岩はその象徴といっていいでしょう。荒川の砂利も運ばれました。都心に通えるくらい近いですから宅地開発も進みました。都心のゴルファーのために、いくつもの山が削られました。
“あとがき”にあるように、東京の巨大化に伴い、広大で自然豊かだった武蔵野も、恐ろしいほどの勢いで変貌を遂げつつあります。宅地化が進んだのは関東平野の末端だけでなく、そこから徐々に盛り上がる丘陵地に及びました。鳩山ニュータウン、飯能・日高分譲地などは、本来が関東平野から関東山地への最初の盛り上がりの場所でした。
そうした場所は、本来ならば、何千年も前と同じ自然の残っていたはずの場所です。それが、関東平野に隣接し、東京への便がいいという理由で切り倒され、掘り返されました。ゴルフ場がそこにたくさん作られたのも、同じ理由でしょう。
この本の著者の守屋龍男さんは、そのような“秩父の低山”の置かれた環境を理解した上で、未だに残る何千年前と同じ緑の雑木林や森、清冽な水のほとばしる川、滝に、大きな価値を見出してくれています。
それはかつて登山道ではなく、秩父と外秩父をつなぐ街道でした。秩父と名栗をつなぐ峠道でした。浦山と奥多摩に同じ文化を育む道でした。山の中にも人の営みがあって、お地蔵さまや石塔が人の往来を見つめていました。
著者はそんな面影をたどりながら、この道を歩いたんだろうと思います。その頃から、さらに三〇年を経て、“秩父の低山”はさらに変わってしまったかもしれません。
奥武蔵の山々は、かなり高いところまで林道が走っています。おそらく、昔から盛んだった林業のための道だったんでしょう。そのせいもあって、高校の頃は、逆に侮って、敬遠していました。秩父から奥の山々を目指すことが多かったので、奥武蔵や北武蔵、名栗の山々には歩いていない道がたくさんありました。
この一年半ほどの間に、守屋さんの紹介するコースをもとにして、私もいろいろな道を歩いてみました。これからも、この“秩父の低山”を生活圏としてきた人々を思いつつ、この気持のいい道を歩きたいと思います。
圏央道完成後、この地域は物流の拠点として見直され、あちこちに巨大倉庫が建てられています。これが、またも森を切り開き、丘を取り崩すことにつながることのないことを祈ります。

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