アンリ4世『ブルボン朝』 佐藤賢一
もと神奈川県民だった連れ合いに言わせると、“秩父顔”というのがあるようです。これは私が父や祖父、また兄弟たちとにているというレベルの話ではなく、秩父生まれの、特に男たちの顔には特徴があるというのです。眉毛がはっきりしていて眼光が強く、目尻は歳とともに垂れるんだけど、柔和になるどころが険しくなるというものなんです。まあ、秩父は山国ですから、その中で通婚が繰り替えされていけば、何らかの特徴が現れておおかしくありません。
《ベアルン男》って、そういう呼び方があるんですね。
ベアルンはフランス南西部、もうスペイン国境に近いというピレネー山麓にあるそうです。後の大王アンリ四世は、ここベアルンで生まれました。
ベアルンは、もう少し広い括りで言えばガスコーニュ地方、そのガスコーニュに暮らす人々ガスコーニュ人をフランス語でガスコンと言うそうです。山がちな厳しい自然環境、いくさの絶えない過酷な政治環境にあって、このガスコンの猪突猛進の熱血漢は有名なところだそうです。
底なしの勢力で疲れを知らずに動き回り、頭の中まで例外でなく、狡知に長けた食えない連中というのは、やはり後ろに回って囁かれる悪口というところでしょう。
このガスコーニュ、語源はバスコニアという言葉だそうです。バスコニアと言えば、バスク人の国。バスク人がここに住み着いたのは六世紀のことだそうで、ゲルマン民族の移動以来の西ヨーロッパにおける民族のシャッフルが終わりかけた頃でしょうか。
言語も文化もスペインともフランスとも起源が違うそうで、ずっと大国に挟まれた山中にあって、独自の文化を失わずに現代に至るんだそうです。ベレー帽、あれの起源はバスクのものだそうです。
日本にも縁があって、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはバスクですね。「以後よく広まるキリスト教」、一五四九年のことです。だから、アンリ四世よりも二世代ほど前の人。なにしろ、ザビエルが海外への宣教活動に乗り出したのは、宗教改革に対するローマ教会の巻き返しですね。対抗宗教改革の主役になったのが、イエズス会を設立したイグナティウス・ロヨラにフランシスコ・ザビエル。二人ともバスクだったっていうんだからすごいじゃありませんか。その力の原動力はガスコン、猪突猛進の熱血漢というところでしょうか。
彼らは一様に、頭髪も眉も黒々と、目鼻の作りもあくが強く、いうところのバスク顔をしていたようです。


ただ単にヴァロア朝の血筋が血筋が絶えたから、さかのぼって分家の血筋に当たる中でもその筆頭の、ブルボン家にお鉢が回ってきたという話じゃないんですね。
なにしろフランスを真っ二つに割ったユグノー戦争の真っ只中。親の影響で新教徒となったアンリ・ド・ブルボンだったが、生き抜くためには何度も宗旨変えをしています。
カトリック派によるユグノー虐殺は宮廷にも及び、若夫婦の部屋も血まみれの様相だったそうです。それでもマルゴの部屋にいれば安全なところ、あえてアンリは国王シャルル九世に保護を求めています。王がアンリに改宗を迫ると、さもなくば虐殺の現場に放り出すと迫ると、アンリは陛下の仰せに従いますと、あっさり改宗を受け入れています。
アンリにはどちらでもいいのです。アンリは旧教であるとか、新教であるとかの前に、フランス人でなければならないという意識がなによりも大事なことだったんです。
アンリに改宗を迫ったシャルル九世が亡くなり、あとを継いだアンリ三世が跡継ぎを残さずに亡くなった時、アンリ・ド・ブルボンは再度再度ユグノーに戻っていました。ユグノーの国王など迎えられないと、パリを始めとするカトリックの抵抗は凄まじく、フランスは分裂したままでした。ここから先が、アンリ四世の八面六臂の大活躍。
カトリーヌ・ド・メディシスの嫡孫イザベルをフランス国王にと介入してくるスペインを向こうに回して、もしもアンリ四世というガスコンでなければ今のフランスはなかったでしょう。
彼自身が自らカトリックに改宗してナントで戴冠し、すべてのフランス人の父たるフランス王になりました。さらにナントの勅令でフランスを一つにしました。
ベアルンは、歴史の大きな転換点に、極めて重要な人物を送り出してくれます。
アンリ四世が生涯に抱えた愛人、一定期間続いた女だけで、七三人を数えるそうです。私なんかじゃ、ゾッとするばかりです。
《ベアルン男》って、そういう呼び方があるんですね。
ベアルンはフランス南西部、もうスペイン国境に近いというピレネー山麓にあるそうです。後の大王アンリ四世は、ここベアルンで生まれました。
ベアルンは、もう少し広い括りで言えばガスコーニュ地方、そのガスコーニュに暮らす人々ガスコーニュ人をフランス語でガスコンと言うそうです。山がちな厳しい自然環境、いくさの絶えない過酷な政治環境にあって、このガスコンの猪突猛進の熱血漢は有名なところだそうです。
底なしの勢力で疲れを知らずに動き回り、頭の中まで例外でなく、狡知に長けた食えない連中というのは、やはり後ろに回って囁かれる悪口というところでしょう。
このガスコーニュ、語源はバスコニアという言葉だそうです。バスコニアと言えば、バスク人の国。バスク人がここに住み着いたのは六世紀のことだそうで、ゲルマン民族の移動以来の西ヨーロッパにおける民族のシャッフルが終わりかけた頃でしょうか。
言語も文化もスペインともフランスとも起源が違うそうで、ずっと大国に挟まれた山中にあって、独自の文化を失わずに現代に至るんだそうです。ベレー帽、あれの起源はバスクのものだそうです。
日本にも縁があって、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルはバスクですね。「以後よく広まるキリスト教」、一五四九年のことです。だから、アンリ四世よりも二世代ほど前の人。なにしろ、ザビエルが海外への宣教活動に乗り出したのは、宗教改革に対するローマ教会の巻き返しですね。対抗宗教改革の主役になったのが、イエズス会を設立したイグナティウス・ロヨラにフランシスコ・ザビエル。二人ともバスクだったっていうんだからすごいじゃありませんか。その力の原動力はガスコン、猪突猛進の熱血漢というところでしょうか。
彼らは一様に、頭髪も眉も黒々と、目鼻の作りもあくが強く、いうところのバスク顔をしていたようです。
『ブルボン朝』 佐藤賢一 講談社現代新書 ¥ 1,080 フランス王朝史の白眉、 3つの王朝中、最も華やかなブルボン朝の時代を描く |
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ただ単にヴァロア朝の血筋が血筋が絶えたから、さかのぼって分家の血筋に当たる中でもその筆頭の、ブルボン家にお鉢が回ってきたという話じゃないんですね。
なにしろフランスを真っ二つに割ったユグノー戦争の真っ只中。親の影響で新教徒となったアンリ・ド・ブルボンだったが、生き抜くためには何度も宗旨変えをしています。
なにしろ、サン・バルテルミの大虐殺は、アンリ・ド・ブルボンとマルグリット・ドゥ・ヴァロアとの結婚を期に発生したもの。マルグリット・ドゥ・ヴァロアといえば、あの“王妃マルゴ”のこと。 この渦中に、まさしくアンリ・ド・ブルボンがいたわけです。 | ![]() |
カトリック派によるユグノー虐殺は宮廷にも及び、若夫婦の部屋も血まみれの様相だったそうです。それでもマルゴの部屋にいれば安全なところ、あえてアンリは国王シャルル九世に保護を求めています。王がアンリに改宗を迫ると、さもなくば虐殺の現場に放り出すと迫ると、アンリは陛下の仰せに従いますと、あっさり改宗を受け入れています。
アンリにはどちらでもいいのです。アンリは旧教であるとか、新教であるとかの前に、フランス人でなければならないという意識がなによりも大事なことだったんです。
アンリに改宗を迫ったシャルル九世が亡くなり、あとを継いだアンリ三世が跡継ぎを残さずに亡くなった時、アンリ・ド・ブルボンは再度再度ユグノーに戻っていました。ユグノーの国王など迎えられないと、パリを始めとするカトリックの抵抗は凄まじく、フランスは分裂したままでした。ここから先が、アンリ四世の八面六臂の大活躍。
カトリーヌ・ド・メディシスの嫡孫イザベルをフランス国王にと介入してくるスペインを向こうに回して、もしもアンリ四世というガスコンでなければ今のフランスはなかったでしょう。
彼自身が自らカトリックに改宗してナントで戴冠し、すべてのフランス人の父たるフランス王になりました。さらにナントの勅令でフランスを一つにしました。
ベアルンは、歴史の大きな転換点に、極めて重要な人物を送り出してくれます。
アンリ四世が生涯に抱えた愛人、一定期間続いた女だけで、七三人を数えるそうです。私なんかじゃ、ゾッとするばかりです。

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