『山の神々』 坂本大三郎
なんと言っても、だいぶ過ごしやすい気候になってまいりました。
朝、寝ぼけながら、少しずつ目を覚ましていくのが気持ちいいです。これが、この間までの気候だと、こうはいきません。眠りが浅くなると、最初に感じるのが不快感なんですから。それから無理に眠ろうとして、短時間に不快感を繰り返すと、もう寝ていられません。起きてからも、眠りが足りていませんから、どこか中途半端な一日を過ごしている感じがつきまといます。
それがここのところ収まりました。早朝の走り込みも、ゆったりと様子を見てから始めましょう。仕事をしてないって、本当にいいですね。
この本には、「伝承と神話の道をたどる」という副題が付けられています。山の民俗学を扱った本といえばいいでしょうか。書いているのは、山伏としての経験を持つイラストレーターで、文筆家で、芸術家の方なんですが、テーマから来る印象よりもお若いことに驚かされました。四四歳の方です。
この方、山伏という一面を持ちながら、山伏にありがちな霊的、または神秘的な側面には、興味を向けておられません。ただ、山伏は古くから民間信仰の一翼を担い、日本の文化の支え手であったことは事実です。そんな山伏の観点から、古い由来のある技術や知識を得ることで、祖先の心に触れてみたいということのようです。
柳田國男は、「今残っている以前の技術の中には、その基礎となった知識は消えてしまって、何のことだか解らずに、ただ技術のみが惰性でもってわずかに残っているものが多い」と述べているそうです。
著者の坂本大三郎さんは、山伏として日本各地を巡って山の物語を拾い集め、「惰性でわずかに残っているもの」であっても、各地の話を比較することで、《前代の人生観》をあぶり出すことを、この本に於いて試みようとしたもののようです。
明治以降、日本に広まった近代登山。今、登山ブームと言われますが、日本人にとっての山に登るってことは、いわゆる近代登山とは、どこか違うところがあるように思うんです。山には、“縄文”が残っている。それを感じたいんじゃないかなって、そんなふうに思うんです。


戦後、《家》というのが悪役に仕立てられて、《家》によって受け継がれてきた多くのものが、失われてしまいました。私の生まれた家でも、長男の嫁によって受け継がれてきたある風習がありました。祖母はまるで、その風習の権化のような人でした。祖母と一緒にいることは、私も色々なものを見ました。母は新しい世の中を感じて、その風習を長男の嫁には伝えませんでした。そんなことをやってる時代じゃなかったんです。
そういったものが、どんどん失われていると思うんです。《家》と同時に、いや、それ以前に《ムラ》も崩壊して、受け継がれないものがたくさんあります。私が住んでいる地域には、わらで編んだ“ふせぎ”を竹竿にかけて辻に立て、部落を守る風習ががあります。ですが、それを受け継ぐべき若者がいないのです。
だからこそ、坂本大三郎さんの試みは、とても大事なことだと思います。しかし、この試みはあまりにも壮大です。ご自身も、まえがきで言ってらっしゃいます。
「各地の山をめぐる中で痛感したのは、ひとつの山のことを本当に知りたいと思うならば、その山に人生のすべてをかけるくらいの熱量で向かい合わなければ解らないという思いでした」
山はそこにあるだけなのですが、太古から、実は多くの人がその山に関わり合ってきて、多くの人の思いがその山にまとわりついています。私も山に登りますが、何度か足を運んだだけでは、その山のことなんか分かりません。坂本さんも、「この本で紹介できているのは各地の山の、ほんの一面です」と言ってらっしゃいます。
だけど、この本を読んだだけでも、感じられることがたくさんありました。その一つが、今の日本の登山ブーム。みなさん、山に残されている、“縄文”を感じようとしているんじゃないかということなんです。
小河内ダム、奥多摩ダムですね。その水の博物館の周辺に、石碑を集めた小道があります。ダムに沈んだ地域にあったものが集められたもののようです。山に関わる思いも、ダムに沈みました。石碑もすべて持ち出されたものではないでしょう。
たとえ、破片であっても、それを各地の破片とつなぎ合わせることから、《前代の人生観》をあぶり出す。ぜひ続けていただきたいと思います。
朝、寝ぼけながら、少しずつ目を覚ましていくのが気持ちいいです。これが、この間までの気候だと、こうはいきません。眠りが浅くなると、最初に感じるのが不快感なんですから。それから無理に眠ろうとして、短時間に不快感を繰り返すと、もう寝ていられません。起きてからも、眠りが足りていませんから、どこか中途半端な一日を過ごしている感じがつきまといます。
それがここのところ収まりました。早朝の走り込みも、ゆったりと様子を見てから始めましょう。仕事をしてないって、本当にいいですね。
この本には、「伝承と神話の道をたどる」という副題が付けられています。山の民俗学を扱った本といえばいいでしょうか。書いているのは、山伏としての経験を持つイラストレーターで、文筆家で、芸術家の方なんですが、テーマから来る印象よりもお若いことに驚かされました。四四歳の方です。
この方、山伏という一面を持ちながら、山伏にありがちな霊的、または神秘的な側面には、興味を向けておられません。ただ、山伏は古くから民間信仰の一翼を担い、日本の文化の支え手であったことは事実です。そんな山伏の観点から、古い由来のある技術や知識を得ることで、祖先の心に触れてみたいということのようです。
柳田國男は、「今残っている以前の技術の中には、その基礎となった知識は消えてしまって、何のことだか解らずに、ただ技術のみが惰性でもってわずかに残っているものが多い」と述べているそうです。
著者の坂本大三郎さんは、山伏として日本各地を巡って山の物語を拾い集め、「惰性でわずかに残っているもの」であっても、各地の話を比較することで、《前代の人生観》をあぶり出すことを、この本に於いて試みようとしたもののようです。
明治以降、日本に広まった近代登山。今、登山ブームと言われますが、日本人にとっての山に登るってことは、いわゆる近代登山とは、どこか違うところがあるように思うんです。山には、“縄文”が残っている。それを感じたいんじゃないかなって、そんなふうに思うんです。
『山の神々』 坂本大三郎 A&FBOOKS ¥ 1,836 ここには日本の山について知らないことがいっぱい書かれていた。私たちはどのように山と向き合うのか |
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戦後、《家》というのが悪役に仕立てられて、《家》によって受け継がれてきた多くのものが、失われてしまいました。私の生まれた家でも、長男の嫁によって受け継がれてきたある風習がありました。祖母はまるで、その風習の権化のような人でした。祖母と一緒にいることは、私も色々なものを見ました。母は新しい世の中を感じて、その風習を長男の嫁には伝えませんでした。そんなことをやってる時代じゃなかったんです。
そういったものが、どんどん失われていると思うんです。《家》と同時に、いや、それ以前に《ムラ》も崩壊して、受け継がれないものがたくさんあります。私が住んでいる地域には、わらで編んだ“ふせぎ”を竹竿にかけて辻に立て、部落を守る風習ががあります。ですが、それを受け継ぐべき若者がいないのです。
だからこそ、坂本大三郎さんの試みは、とても大事なことだと思います。しかし、この試みはあまりにも壮大です。ご自身も、まえがきで言ってらっしゃいます。
「各地の山をめぐる中で痛感したのは、ひとつの山のことを本当に知りたいと思うならば、その山に人生のすべてをかけるくらいの熱量で向かい合わなければ解らないという思いでした」
山はそこにあるだけなのですが、太古から、実は多くの人がその山に関わり合ってきて、多くの人の思いがその山にまとわりついています。私も山に登りますが、何度か足を運んだだけでは、その山のことなんか分かりません。坂本さんも、「この本で紹介できているのは各地の山の、ほんの一面です」と言ってらっしゃいます。
だけど、この本を読んだだけでも、感じられることがたくさんありました。その一つが、今の日本の登山ブーム。みなさん、山に残されている、“縄文”を感じようとしているんじゃないかということなんです。
小河内ダム、奥多摩ダムですね。その水の博物館の周辺に、石碑を集めた小道があります。ダムに沈んだ地域にあったものが集められたもののようです。山に関わる思いも、ダムに沈みました。石碑もすべて持ち出されたものではないでしょう。
たとえ、破片であっても、それを各地の破片とつなぎ合わせることから、《前代の人生観》をあぶり出す。ぜひ続けていただきたいと思います。

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