『ガラリ一変! 競馬の見方』 西内荘
京都の淀競馬場には一度しか言ったことがありません。
1992年10月10日のことでした。私と大先輩のI氏、後輩のK氏とともに、生徒を旅館から送り出したあと、いそいそと祇園四条駅から京阪本線に乗り込みました。メインレースまで見られないのは残念ですが、その前に競馬場を出れば生徒の帰着前に旅館に帰れます。旅館は新京極にありましたので、乗換なしの一本で帰れるのが嬉しいですね。
この日は9Rに3歳オープンのもみじステークスってのがあったんです。当時は確か、2歳オープンっていうふうに言ってたと思います。朝日杯の前哨戦みたいなレースですね。
すごい固いレースで、お金持ちのI氏だけが金に物を言わせて的中させました。一着に入ったビワハヤヒデはデビュー二戦目ながら堂々の一番人気で、好位から差し切りの強い勝ち方を身に着けているようなレースでした。この時は、ビワハヤヒデばかりが記憶に残ったんですが、あとから考えると、このレースに出ていた馬たち、その後、大活躍してるんです。
二着に入ったシルクムーンライトは、テレビ西日本北九州記念でG3のレースを制しています。三着のマーベラスクラウンはジャパンカップを制したG1馬。六着のテイエムハリケーンはもみじステークスの前に札幌3歳ステークスというG3を制していて、それ以降のグレード勝ちはないもののオープン馬として活躍しました。八着のマヤノギャラクシーは、障害に転向してグレードレースを制しています。あとから、「おいおい、あの時、淀で走ってた馬だ」ってのがしばらく続きました。
生徒にも競馬の話はたくさんしました。ライスシャワーと的場均騎手の話や、サイレンススズカと武豊騎手の話。どちらも、馬はレース中の故障で予後不良と判断され安楽死処分がとられました。そんな悲しい話の中にある、馬と人の結びつきとかを話した覚えがあります。それから、競馬にかかわって生活している人たちの話なんかですね。中にはそれらの中に、運命的な結びつきであるとか、レースがあるじゃないですか。そういう話です。
世界史の話は眠くなるらしいんだけど、そんな雰囲気が現れると、馬の話だの、山の話だの、怖い話をして、目を覚まさせてましたね。


著者の西内荘さんは、“カリスマ装蹄師”と呼ばれる人だそうです。あの細い足で400キロからの身体を支え、60キロ以上のスピードで走るんですから、馬の足回りを預かる装蹄師っていうのは、競馬界にとっても非常に重要な存在なんですね。
蹄鉄の素材もずいぶん替わったんだそうです。通勤途中に乗馬場があって、よく柵越しに馬を見ていました。「やってみませんか」って声をかけられたんですが、当時は股関節が駄目だった頃で、馬は乗れませんでした。でも、馬には触らせてもらいました。蹄鉄をもらって帰って、重り代わりに学校で使ってました。
素材が良くなったことに加えて、西内さんら装蹄師の努力で、ずいぶん馬の足回りに関わる状況も良くなっていったようです。
そうですねぇ。第四章の馬たちの名前も、とても懐かしいですね。ダイユウサクは装蹄師の仕事のやりがいのある馬だったようです。1991年のあの有馬記念。一番人気のメジロマックイーンを抑えて一着に入ったのは、「あっと驚くダイユウサク」でした。メジロマックイーンも西内さんの担当馬だそうですが、足元の弱いダイユウサクを立て直したのは西山さんだったそうです。私、馬券を買ってました。儲かりました。ありがとうございます。
1993年の天皇賞で、ライスシャワーがメジロマックイーンを抑えて優勝しましたが、このときも馬券を買ってたんです。・・・ライスシャワーをね。
どうやら、メジロマックイーンは負けるべくして負けたということのようです。メジロマックイーンは、あの頃、小さな骨折をかかえながら走っていたそうです。走ること自体には問題ないという状態だったそうです。柔らかい馬場なら何事もなく走れるけど、パンパンの良馬場だと馬が不安を感じて全力を出せなかったんだそうです。それでも二着に入るんだから、マックイーンはすごいと言ってますが、マックイーンが二着に来たことで、馬券は安くなってしまいました。
それから、ブラックタイドとディープインパクトの関係も面白いですね。ブラックタイドはディープインパクトの全兄で、かつキタサンブラックの父親ですね。種牡馬としてのディープは、すでに盤石の地位を築いてますが、これからはブラックタイド産駒をさらに注目していこうと思います。
1992年10月10日のことでした。私と大先輩のI氏、後輩のK氏とともに、生徒を旅館から送り出したあと、いそいそと祇園四条駅から京阪本線に乗り込みました。メインレースまで見られないのは残念ですが、その前に競馬場を出れば生徒の帰着前に旅館に帰れます。旅館は新京極にありましたので、乗換なしの一本で帰れるのが嬉しいですね。
この日は9Rに3歳オープンのもみじステークスってのがあったんです。当時は確か、2歳オープンっていうふうに言ってたと思います。朝日杯の前哨戦みたいなレースですね。
すごい固いレースで、お金持ちのI氏だけが金に物を言わせて的中させました。一着に入ったビワハヤヒデはデビュー二戦目ながら堂々の一番人気で、好位から差し切りの強い勝ち方を身に着けているようなレースでした。この時は、ビワハヤヒデばかりが記憶に残ったんですが、あとから考えると、このレースに出ていた馬たち、その後、大活躍してるんです。
二着に入ったシルクムーンライトは、テレビ西日本北九州記念でG3のレースを制しています。三着のマーベラスクラウンはジャパンカップを制したG1馬。六着のテイエムハリケーンはもみじステークスの前に札幌3歳ステークスというG3を制していて、それ以降のグレード勝ちはないもののオープン馬として活躍しました。八着のマヤノギャラクシーは、障害に転向してグレードレースを制しています。あとから、「おいおい、あの時、淀で走ってた馬だ」ってのがしばらく続きました。
生徒にも競馬の話はたくさんしました。ライスシャワーと的場均騎手の話や、サイレンススズカと武豊騎手の話。どちらも、馬はレース中の故障で予後不良と判断され安楽死処分がとられました。そんな悲しい話の中にある、馬と人の結びつきとかを話した覚えがあります。それから、競馬にかかわって生活している人たちの話なんかですね。中にはそれらの中に、運命的な結びつきであるとか、レースがあるじゃないですか。そういう話です。
世界史の話は眠くなるらしいんだけど、そんな雰囲気が現れると、馬の話だの、山の話だの、怖い話をして、目を覚まさせてましたね。
『ガラリ一変!競馬の見方』 西内荘 東邦出版 ¥ 1,620 ディープをはじめ、数々の名馬を支え、救ってきた”カリスマ装蹄師”西内 荘の仕事がここに |
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著者の西内荘さんは、“カリスマ装蹄師”と呼ばれる人だそうです。あの細い足で400キロからの身体を支え、60キロ以上のスピードで走るんですから、馬の足回りを預かる装蹄師っていうのは、競馬界にとっても非常に重要な存在なんですね。
蹄鉄の素材もずいぶん替わったんだそうです。通勤途中に乗馬場があって、よく柵越しに馬を見ていました。「やってみませんか」って声をかけられたんですが、当時は股関節が駄目だった頃で、馬は乗れませんでした。でも、馬には触らせてもらいました。蹄鉄をもらって帰って、重り代わりに学校で使ってました。
素材が良くなったことに加えて、西内さんら装蹄師の努力で、ずいぶん馬の足回りに関わる状況も良くなっていったようです。
そうですねぇ。第四章の馬たちの名前も、とても懐かしいですね。ダイユウサクは装蹄師の仕事のやりがいのある馬だったようです。1991年のあの有馬記念。一番人気のメジロマックイーンを抑えて一着に入ったのは、「あっと驚くダイユウサク」でした。メジロマックイーンも西内さんの担当馬だそうですが、足元の弱いダイユウサクを立て直したのは西山さんだったそうです。私、馬券を買ってました。儲かりました。ありがとうございます。
1993年の天皇賞で、ライスシャワーがメジロマックイーンを抑えて優勝しましたが、このときも馬券を買ってたんです。・・・ライスシャワーをね。
どうやら、メジロマックイーンは負けるべくして負けたということのようです。メジロマックイーンは、あの頃、小さな骨折をかかえながら走っていたそうです。走ること自体には問題ないという状態だったそうです。柔らかい馬場なら何事もなく走れるけど、パンパンの良馬場だと馬が不安を感じて全力を出せなかったんだそうです。それでも二着に入るんだから、マックイーンはすごいと言ってますが、マックイーンが二着に来たことで、馬券は安くなってしまいました。
それから、ブラックタイドとディープインパクトの関係も面白いですね。ブラックタイドはディープインパクトの全兄で、かつキタサンブラックの父親ですね。種牡馬としてのディープは、すでに盤石の地位を築いてますが、これからはブラックタイド産駒をさらに注目していこうと思います。

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