前方後円墳『仕組まれた古代の真実』 関裕二
考古学により確かめられたことで言うなら、三世紀後半、現在の奈良県桜井市、三輪山麓の纏向に前方後円墳の箸墓古墳が作られました。四世紀になると前方後円墳は各地に伝播し、埋葬文化を共有する緩やかなつながりの連合体が出現しました。
これが、ヤマト建国であったようです。
“前方後円墳はヤマト建国のシンボル”と著者の関裕二さんは言ってます。ヤマトという緩やかなつながりの連合体に連なるものは、前方後円墳に首長を葬るという方法を取ることで、その証としたということのようです。
当時、移動の際、人は食器を携えて行ったそうです。食器は土器です。時には地域による特徴があって、纏向に、どこから人が集まってきたか分かるそうです。この間読んだ関さんの本の紹介でも書きました。
纏向にもたらされた外来土器の内訳は、東海四九%、山陰・北陸一七%、河内一〇%、吉備七%、関東五%、近江五%、西部瀬戸内三%、播磨三%、紀伊一%だそうです。東海と関東で過半数を超えます。東国は、ヤマト建国に強く関わっていたんですね。
さらに、纏向には九州の土器がほとんどないんだそうです。つまり、九州はヤマト建国に関わっていない。そうなると、日本書紀に書かれた「初代神武天皇は、九州からヤマトにやってきた」という神武東征の話は、一体どうなるんでしょう。


前方後円墳というのは、お墓なんですからそんなはずないんですが、どこかふざけた形してませんか。
誰でも思うのは、鍵穴の形ですね。でも、最初にその形ありきじゃなくて、原型は円墳だったそうです。その周りに溝を掘ってあちらの世界とこちらの世界を分けました。さらに、円墳部分に葬られた被葬者を参拝するために、溝を越える通路を作り、この通路が前方後円墳の“前方部”に発展したということのようです。
さらにそこには、各地の埋葬文化が寄せ詰められているんだそうです。墳丘上に並べられる特殊器台形土器は吉備から、墳丘をおおう葺石は出雲の四隅突出型墳丘墓から、古墳周りの周濠は近畿の方形周溝墓からというふうに。そう考えると、まさに前方後円墳は緩やかな連合体として成立したヤマト政権のシンボルということになりそうです。
土器で纏向に足跡を残した地域は、銅鐸文化圏に重なります。一方、一部地域を共有して西側に広がるのが銅矛文化圏です。銅鐸文化は、ほぼヤマト政権が成立したと思われる頃に突然消滅し、それに替わって前方後円墳が登場します。
これを、西の銅矛文化の一部が東征して銅鐸文化を滅ぼし、前方後円墳による祭祀を始めたという説があります。北九州が朝鮮半島南部で取れる鉄を独占して発展していたことを考えれば、うなずけないでもありません。
しかし、土器による足跡は、明らかにそれを否定しています。逆に、東の土器が北部九州にどんどん流れ込んでいたこと、考古学の発見によって証明されているんだそうです。
どうやら、北九州が独占したかに見えた鉄が、独自の航路を開拓した但馬、丹波によって近江、そこから近畿、東国に流され、銅鐸文化圏を勢いづけ、纏向への集結につながったようです。彼らは結束を示すために前方後円墳という新たな祭祀を始め、それまでの銅鐸による祭祀を捨てます。そして、軍を西に進めて吸収に圧力をかけたのです。
繁栄を誇った北九州が危機を迎えます。ヤマトが大きな脅威となった頃、北九州は外構に活路を見出そうと、朝鮮半島に進出してきたばかりの魏に朝貢の使者を送ったのです。
しかし、それでも、ちょうど三世紀後半から四世紀にかけて、北九州でも前方後円墳が作られていったそうです。
卑弥呼の邪馬台国、神武東征の真実、日本書紀編集の最終責任者は、一体何を隠そうとしていたんでしょう。
これが、ヤマト建国であったようです。
“前方後円墳はヤマト建国のシンボル”と著者の関裕二さんは言ってます。ヤマトという緩やかなつながりの連合体に連なるものは、前方後円墳に首長を葬るという方法を取ることで、その証としたということのようです。
当時、移動の際、人は食器を携えて行ったそうです。食器は土器です。時には地域による特徴があって、纏向に、どこから人が集まってきたか分かるそうです。この間読んだ関さんの本の紹介でも書きました。
纏向にもたらされた外来土器の内訳は、東海四九%、山陰・北陸一七%、河内一〇%、吉備七%、関東五%、近江五%、西部瀬戸内三%、播磨三%、紀伊一%だそうです。東海と関東で過半数を超えます。東国は、ヤマト建国に強く関わっていたんですね。
さらに、纏向には九州の土器がほとんどないんだそうです。つまり、九州はヤマト建国に関わっていない。そうなると、日本書紀に書かれた「初代神武天皇は、九州からヤマトにやってきた」という神武東征の話は、一体どうなるんでしょう。
『仕組まれた古代の真実』 関裕二 辰巳出版 ¥ 1,188 日本史、特に古代に真実を知らずにいる日本人は不幸である |
前方後円墳というのは、お墓なんですからそんなはずないんですが、どこかふざけた形してませんか。
誰でも思うのは、鍵穴の形ですね。でも、最初にその形ありきじゃなくて、原型は円墳だったそうです。その周りに溝を掘ってあちらの世界とこちらの世界を分けました。さらに、円墳部分に葬られた被葬者を参拝するために、溝を越える通路を作り、この通路が前方後円墳の“前方部”に発展したということのようです。
さらにそこには、各地の埋葬文化が寄せ詰められているんだそうです。墳丘上に並べられる特殊器台形土器は吉備から、墳丘をおおう葺石は出雲の四隅突出型墳丘墓から、古墳周りの周濠は近畿の方形周溝墓からというふうに。そう考えると、まさに前方後円墳は緩やかな連合体として成立したヤマト政権のシンボルということになりそうです。
土器で纏向に足跡を残した地域は、銅鐸文化圏に重なります。一方、一部地域を共有して西側に広がるのが銅矛文化圏です。銅鐸文化は、ほぼヤマト政権が成立したと思われる頃に突然消滅し、それに替わって前方後円墳が登場します。
これを、西の銅矛文化の一部が東征して銅鐸文化を滅ぼし、前方後円墳による祭祀を始めたという説があります。北九州が朝鮮半島南部で取れる鉄を独占して発展していたことを考えれば、うなずけないでもありません。
しかし、土器による足跡は、明らかにそれを否定しています。逆に、東の土器が北部九州にどんどん流れ込んでいたこと、考古学の発見によって証明されているんだそうです。
どうやら、北九州が独占したかに見えた鉄が、独自の航路を開拓した但馬、丹波によって近江、そこから近畿、東国に流され、銅鐸文化圏を勢いづけ、纏向への集結につながったようです。彼らは結束を示すために前方後円墳という新たな祭祀を始め、それまでの銅鐸による祭祀を捨てます。そして、軍を西に進めて吸収に圧力をかけたのです。
繁栄を誇った北九州が危機を迎えます。ヤマトが大きな脅威となった頃、北九州は外構に活路を見出そうと、朝鮮半島に進出してきたばかりの魏に朝貢の使者を送ったのです。
しかし、それでも、ちょうど三世紀後半から四世紀にかけて、北九州でも前方後円墳が作られていったそうです。
卑弥呼の邪馬台国、神武東征の真実、日本書紀編集の最終責任者は、一体何を隠そうとしていたんでしょう。

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