『ジャポニスム』 宮崎克己
運動会といえば、本来は秋の風物詩。
ところが、いつの間にか、学校の運動会というのは、この時期に限ったものではなくなっているようです。学校行事の精選とかの影響で、梅雨入り前にやってしまう学校が多いようですね。最近は、その頃、異様に暑いことがあって、学校は熱中症対策に懸命です。
学校ではそうなってしまったけど、地域の運動会は、なんとか秋の風物詩としての牙城を守っています。地域の運動会とは言うものの、やはり主役は子どもたち。三〇に近い自治会がテントを並べて競い合うことになるものの、すでに小学生はおろか、中学生も、高校生すらいなくなって久しい私たちの自治会が参加できる種目は、実はいくらもありません。
障害物、防災、ボール挟み、年代別の各種リレーは、選手構成に子どもが必要ですので出られません。綱引き、長縄跳びに参加しようものなら、どのような不幸に見舞われることになるのか、頭に思い浮かべられることが現実化する可能性は極めて高いと思われます。
結果として、出場種目は、“輪投げ”、“ナイスショット(ゲートボールみたいなもの)”、“スプーンリレー”、“玉入れ”の四種目に限られます。区長会でいろいろ言われようと、できないものはどうにもなりません。それでもこの地域で、なんとか付き合いを続けていきたいと頑張ってます。
昨日、今年もなんとか、地域の運動会を終えました。
アヘン戦争で、清王朝が無理やり扉をこじ開けられた後、欧米諸国は次なる関心の対象として日本に目を向けることになります。一六世紀半ば、ヨーロッパの船は日本に到達し、一七世紀始めまでは活発な交流が見られました。当時の日本が陸軍大国で、むやみに手出しできるような国ではなかったこと、それから江戸時代に鎖国体制をとり、長崎の出島を、ヨーロッパへの小さな窓としたことで、ヨーロッパと日本の交流は、出島におけるオランダを通したものだけになりました。
情報が限られたものとなり、日本は極めて曖昧な存在になったようです。ところが、そんな中でも蒔絵の漆器や伊万里焼の磁器が、かなり多くヨーロッパにもたらされているのです。
“中国”の扉が開かれたことで、次に“日本”の扉が開かれるだろうことへの期待が、欧米では高まっていたんですね。だから、ペリーの航海は、たとえばフランスでは多くの人たちの関心事で、新聞を賑わせていたようです。
《そして開国。多くの夢は目を開けた途端に幻滅にかわるものだが、「日本」は例外だった》
来日した欧米人が見たものは、当時の世界で、最も文化水準の高い“非西洋”でした。勤勉で礼儀正しく、溢れ出る好奇心を隠そうともしない日本人。そして産物の質と量は、彼らの想像を超えるものだったんです。欧米諸国は日本ブームに沸き立ちます。
そこからおよそ半世紀、欧米では日本の文化、とりわけ美術工芸品を受容、愛好する熱がにわかに高まり、多くの一般の人たちが日本の品々で生活空間を飾りたてていきました。また、少なからぬ芸術家がそれらから影響を受けて、自らの作品を生み出しました。
この社会現象をジャポニズムと呼んだんだそうです。


著者の宮崎克己さんは、もとは美術館の学芸員をなさっていた方で、美術史の研究者ですね。
難しいお仕事でしょうね。美術について語る人には、その作品を、それが作成された背景から切り離して、美術の自律的な発展について論じる人が多いんだそうです。そういうことになると、私なんかにはさっぱりわからなくなってしまいますが、どうやら宮崎さんの立ち位置は少し違うようです。
美術を通して見える人間たちの歴史としての美術史を理解することが、その作品の本当の美しさを理解することにつながると、そうお考えのようです。
たしかに、この本は、まさにそのままの本でした。
二〇世紀に入った頃、このジャポニズムと呼ばれた社会現象も、どうやら下火になっていったようです。盛り上がった山の稜線を下りはじめ、やがて長い裾野となり、ほとんど起伏を感じないまでになっていくんですが、それは欧米の関心から日本が消えたことを意味するんじゃないんですね。
日本の文化、とりわけ美術は、触媒となって西洋の美術に影響を与え、大きな変容の一助となり、西洋美術そのものを変化させたんですね。新たな可能性を見出した西洋美術は、「日本」を意識させることなく発展し、さらに日本にも影響を与えるようになったわけです。次の次元に進んだんですね。
ジャポニズムの時代、その言葉には、地理的な範囲や国家としての存在だけではない、軽い驚きと、どこかしら可笑しさを感じさせるものであったようです。背景には、西洋人の優越意識があったでしょう。
しかし、この間、ジャポニズムなどという西洋の社会現象にはお構いなく、日本は西洋を侵略の脅威の対象として捉えておりました。なりふり構わず国家の体制を変革し、西洋の文物を取り入れて、時には父祖伝来の大事なものを捨てることさえしました。
一九世紀の終わりに近づいた頃、日本はアジアの大国である清に国家間戦争を挑んで勝利しました。さらに二〇世紀が始まると、早々に日露戦争です。日本は欧米列強の一角を崩しました。
もはや、“軽い驚きと、どこかしら可笑しさ”を感じさせる対象などと言っていられない状況になった頃、ジャポニズムは山の稜線を下り始めたんですね。
“ネオ・ジャポニズム”。今、そういう状況が、始まっているそうです。日本はまた、どこか“軽い驚きと可笑しみ”の対象となっているのでしょうか。
ところが、いつの間にか、学校の運動会というのは、この時期に限ったものではなくなっているようです。学校行事の精選とかの影響で、梅雨入り前にやってしまう学校が多いようですね。最近は、その頃、異様に暑いことがあって、学校は熱中症対策に懸命です。
学校ではそうなってしまったけど、地域の運動会は、なんとか秋の風物詩としての牙城を守っています。地域の運動会とは言うものの、やはり主役は子どもたち。三〇に近い自治会がテントを並べて競い合うことになるものの、すでに小学生はおろか、中学生も、高校生すらいなくなって久しい私たちの自治会が参加できる種目は、実はいくらもありません。
障害物、防災、ボール挟み、年代別の各種リレーは、選手構成に子どもが必要ですので出られません。綱引き、長縄跳びに参加しようものなら、どのような不幸に見舞われることになるのか、頭に思い浮かべられることが現実化する可能性は極めて高いと思われます。
結果として、出場種目は、“輪投げ”、“ナイスショット(ゲートボールみたいなもの)”、“スプーンリレー”、“玉入れ”の四種目に限られます。区長会でいろいろ言われようと、できないものはどうにもなりません。それでもこの地域で、なんとか付き合いを続けていきたいと頑張ってます。
昨日、今年もなんとか、地域の運動会を終えました。
アヘン戦争で、清王朝が無理やり扉をこじ開けられた後、欧米諸国は次なる関心の対象として日本に目を向けることになります。一六世紀半ば、ヨーロッパの船は日本に到達し、一七世紀始めまでは活発な交流が見られました。当時の日本が陸軍大国で、むやみに手出しできるような国ではなかったこと、それから江戸時代に鎖国体制をとり、長崎の出島を、ヨーロッパへの小さな窓としたことで、ヨーロッパと日本の交流は、出島におけるオランダを通したものだけになりました。
情報が限られたものとなり、日本は極めて曖昧な存在になったようです。ところが、そんな中でも蒔絵の漆器や伊万里焼の磁器が、かなり多くヨーロッパにもたらされているのです。
“中国”の扉が開かれたことで、次に“日本”の扉が開かれるだろうことへの期待が、欧米では高まっていたんですね。だから、ペリーの航海は、たとえばフランスでは多くの人たちの関心事で、新聞を賑わせていたようです。
《そして開国。多くの夢は目を開けた途端に幻滅にかわるものだが、「日本」は例外だった》
来日した欧米人が見たものは、当時の世界で、最も文化水準の高い“非西洋”でした。勤勉で礼儀正しく、溢れ出る好奇心を隠そうともしない日本人。そして産物の質と量は、彼らの想像を超えるものだったんです。欧米諸国は日本ブームに沸き立ちます。
そこからおよそ半世紀、欧米では日本の文化、とりわけ美術工芸品を受容、愛好する熱がにわかに高まり、多くの一般の人たちが日本の品々で生活空間を飾りたてていきました。また、少なからぬ芸術家がそれらから影響を受けて、自らの作品を生み出しました。
この社会現象をジャポニズムと呼んだんだそうです。
『ジャポニスム』 宮崎克己 講談社現代新書 ¥ 994 「近代」の感性を生み出した源流の一つとして、「日本」の存在を再評価 |
|
著者の宮崎克己さんは、もとは美術館の学芸員をなさっていた方で、美術史の研究者ですね。
難しいお仕事でしょうね。美術について語る人には、その作品を、それが作成された背景から切り離して、美術の自律的な発展について論じる人が多いんだそうです。そういうことになると、私なんかにはさっぱりわからなくなってしまいますが、どうやら宮崎さんの立ち位置は少し違うようです。
美術を通して見える人間たちの歴史としての美術史を理解することが、その作品の本当の美しさを理解することにつながると、そうお考えのようです。
たしかに、この本は、まさにそのままの本でした。
二〇世紀に入った頃、このジャポニズムと呼ばれた社会現象も、どうやら下火になっていったようです。盛り上がった山の稜線を下りはじめ、やがて長い裾野となり、ほとんど起伏を感じないまでになっていくんですが、それは欧米の関心から日本が消えたことを意味するんじゃないんですね。
日本の文化、とりわけ美術は、触媒となって西洋の美術に影響を与え、大きな変容の一助となり、西洋美術そのものを変化させたんですね。新たな可能性を見出した西洋美術は、「日本」を意識させることなく発展し、さらに日本にも影響を与えるようになったわけです。次の次元に進んだんですね。
ジャポニズムの時代、その言葉には、地理的な範囲や国家としての存在だけではない、軽い驚きと、どこかしら可笑しさを感じさせるものであったようです。背景には、西洋人の優越意識があったでしょう。
しかし、この間、ジャポニズムなどという西洋の社会現象にはお構いなく、日本は西洋を侵略の脅威の対象として捉えておりました。なりふり構わず国家の体制を変革し、西洋の文物を取り入れて、時には父祖伝来の大事なものを捨てることさえしました。
一九世紀の終わりに近づいた頃、日本はアジアの大国である清に国家間戦争を挑んで勝利しました。さらに二〇世紀が始まると、早々に日露戦争です。日本は欧米列強の一角を崩しました。
もはや、“軽い驚きと、どこかしら可笑しさ”を感じさせる対象などと言っていられない状況になった頃、ジャポニズムは山の稜線を下り始めたんですね。
“ネオ・ジャポニズム”。今、そういう状況が、始まっているそうです。日本はまた、どこか“軽い驚きと可笑しみ”の対象となっているのでしょうか。

- 関連記事