『帰れない山』 パオロ・コニェッティ
町の少年が、山で牛飼いの少年と出会い、短い夏を、何度も共に過ごします。冒険を繰り返しながら、少しずつ大人になり、やがて父と決裂します。父の望むはずもない道を歩み、やがてその死の知らせを受けて、かつて一緒に夏を過ごした山に戻ります。そこで明らかにされる若き日の父と母。かつて少年だった二人は、また山で同じ時間を過ごすようになります。ですが、人生はやはりままなりません。
なんでそんな事になっちゃうんだろうって、どうにもならないことも人生にはあります。でも、きっといつか。・・・時間が流れると、氷河だって少しは流れます。
父や母の若い頃のことを、なんにも知らなかったのは、私も同じでした。
記憶に残る一番若い父や母は、たとえば母の布団の中の暖かさ。足を擦りながら歩く後ろ姿。父のタバコの臭い。ランニング姿の盛り上がった肩。
アレルギーという言葉があったかどうか知らないけど、子供の頃、私は痒い痒いで、布団の中で背中をかいてもらわないと眠れませんでした。水仕事をしている母の手はいつでもささくれだったいて、かいてもらうのにとても都合が良かった。母が何かあって手が空かないと、父にかいてもらうんですが、水仕事をしていない父の手はツルツルで、私の背中のかゆみを和らげてくれませんでした。
そういうものと切り離した父や母の姿を思い出そうとしても、なんだか写真を探しているようで、実体感が伴いません。あとは、・・・そうですね。酔っ払ってる父。泣いている母。怒ってる父。愚痴ってる母。町の運動会で走っている父。子ども会のキャンプで、他のお母さんたちと一緒にカレーを作っている母。
母の母、祖母は私が三歳の時、秩父夜祭りの夜に交通事故でなくなったそうです。その頃のことなんか他に何一つ浮かばないのに、祖母のもとに駆けつけるために、父方の祖父母に頭を下げている母の姿が頭に浮かぶんです。その祖母は三人の子を連れて再婚していたので、嫁に来た母には辛くても逃げ帰れる家がありませんでした。死んでしまえばなおさらです。「あれば帰った」って言ってたって、兄の嫁さんから聞いたことがあります。
父は、母が死んだ時、「可哀想だった」って繰り返しまいた。まるでなんにもいいことのない一生を送ったかのような言い方に、「子どもを三人生んで、それなりに立派に育てて、三人が三人とも所帯を持って孫が七人もいるんだよ」って、私は言いました。
「それでも、お母さんは、可哀想なんだよ」と、父は言いました。


母は、姑とのことで苦労しました。
姑、私の祖母ですが、とても強い人だったんです。貧乏ではあるが能力のある祖父を支えて畑を耕してきました。身体も丈夫で四男三女を育て上げました。霊感もあって、カリスマ性の強い人でした。
母もまた、頭のいい人だったんです。嫁に来たあと、叔父や叔母は母に勉強を教えてもらったそうです。祖母に唯一欠ける、学を、母は持ってたんです。姑のことで苦労した母は、姑が亡くなったあと、あまり長く生きてくれませんでした。母がなくなってから10年ほどして、父も亡くなりました。
数年前、私よりも若いいとこが亡くなりました。叔父も叔母も、とても落胆していました。それでも、その新盆に伺った時は、だいぶ元気な姿を見せてくれました。その時、母と結婚する前の父の話を聞いたんです。父には、結婚を誓った女がいたそうです。部落の女だったそうです。
祖父母の猛反対にあい、引き裂かれるように別れさせられたそうです。その代わりに、・・・あてがわれるように嫁いできたのが母だったそうです。
今思えば、私のうちには、どこか不自然な暗さがつきまとっていました。・・・あとから考えてみればのことですが。母は、知っていたと思います。意味はまったく分かりませんでしたが、「お父さんには好きだった人がいたんだで」って幼い頃に言われたことがあるんです。あんまり幼いので、猫か、犬でも相手にするような気持ちで話したんでしょう。
父が母を、「可哀想だ」と言ったのは、やはりそのことでしょう。
残念ながら、父母の思い出と登山が重なるわけではないのですが、私にもやはり、《帰れない山》はあるのです。おそらく、私の子どもたちにもいつか、《帰れない山》を思い浮かべるしかない日がやってくるでしょう。
彼らが関わる山の様子をとても丁寧に書いてくれているので、山好きとしてはとても嬉しいところでした。また、まだ未熟な少年の、思春期の心の動きの鮮明さには目を見張らされました。そうそう、翻訳の本ですからね。もとのイタリア語が持っていたであろうニュアンスがどんなものだったかなんて、到底私なんかには分かるはずはないのですが、きっとそれを壊さずに上手に翻訳されているんだろうって思いました。だって、本当に自然に読めましたもの。
39言語に翻訳された国際的ベストセラーだそうです。
なんでそんな事になっちゃうんだろうって、どうにもならないことも人生にはあります。でも、きっといつか。・・・時間が流れると、氷河だって少しは流れます。
父や母の若い頃のことを、なんにも知らなかったのは、私も同じでした。
記憶に残る一番若い父や母は、たとえば母の布団の中の暖かさ。足を擦りながら歩く後ろ姿。父のタバコの臭い。ランニング姿の盛り上がった肩。
アレルギーという言葉があったかどうか知らないけど、子供の頃、私は痒い痒いで、布団の中で背中をかいてもらわないと眠れませんでした。水仕事をしている母の手はいつでもささくれだったいて、かいてもらうのにとても都合が良かった。母が何かあって手が空かないと、父にかいてもらうんですが、水仕事をしていない父の手はツルツルで、私の背中のかゆみを和らげてくれませんでした。
そういうものと切り離した父や母の姿を思い出そうとしても、なんだか写真を探しているようで、実体感が伴いません。あとは、・・・そうですね。酔っ払ってる父。泣いている母。怒ってる父。愚痴ってる母。町の運動会で走っている父。子ども会のキャンプで、他のお母さんたちと一緒にカレーを作っている母。
母の母、祖母は私が三歳の時、秩父夜祭りの夜に交通事故でなくなったそうです。その頃のことなんか他に何一つ浮かばないのに、祖母のもとに駆けつけるために、父方の祖父母に頭を下げている母の姿が頭に浮かぶんです。その祖母は三人の子を連れて再婚していたので、嫁に来た母には辛くても逃げ帰れる家がありませんでした。死んでしまえばなおさらです。「あれば帰った」って言ってたって、兄の嫁さんから聞いたことがあります。
父は、母が死んだ時、「可哀想だった」って繰り返しまいた。まるでなんにもいいことのない一生を送ったかのような言い方に、「子どもを三人生んで、それなりに立派に育てて、三人が三人とも所帯を持って孫が七人もいるんだよ」って、私は言いました。
「それでも、お母さんは、可哀想なんだよ」と、父は言いました。
『帰れない山』 パオロ・コニェッティ 新潮クレスト・ブックス ¥ 2,255 アルプスで出会った二人の少年、山を通じて人生を描く感動長篇 大事に読みたい一冊 |
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母は、姑とのことで苦労しました。
姑、私の祖母ですが、とても強い人だったんです。貧乏ではあるが能力のある祖父を支えて畑を耕してきました。身体も丈夫で四男三女を育て上げました。霊感もあって、カリスマ性の強い人でした。
母もまた、頭のいい人だったんです。嫁に来たあと、叔父や叔母は母に勉強を教えてもらったそうです。祖母に唯一欠ける、学を、母は持ってたんです。姑のことで苦労した母は、姑が亡くなったあと、あまり長く生きてくれませんでした。母がなくなってから10年ほどして、父も亡くなりました。
数年前、私よりも若いいとこが亡くなりました。叔父も叔母も、とても落胆していました。それでも、その新盆に伺った時は、だいぶ元気な姿を見せてくれました。その時、母と結婚する前の父の話を聞いたんです。父には、結婚を誓った女がいたそうです。部落の女だったそうです。
祖父母の猛反対にあい、引き裂かれるように別れさせられたそうです。その代わりに、・・・あてがわれるように嫁いできたのが母だったそうです。
今思えば、私のうちには、どこか不自然な暗さがつきまとっていました。・・・あとから考えてみればのことですが。母は、知っていたと思います。意味はまったく分かりませんでしたが、「お父さんには好きだった人がいたんだで」って幼い頃に言われたことがあるんです。あんまり幼いので、猫か、犬でも相手にするような気持ちで話したんでしょう。
父が母を、「可哀想だ」と言ったのは、やはりそのことでしょう。
残念ながら、父母の思い出と登山が重なるわけではないのですが、私にもやはり、《帰れない山》はあるのです。おそらく、私の子どもたちにもいつか、《帰れない山》を思い浮かべるしかない日がやってくるでしょう。
彼らが関わる山の様子をとても丁寧に書いてくれているので、山好きとしてはとても嬉しいところでした。また、まだ未熟な少年の、思春期の心の動きの鮮明さには目を見張らされました。そうそう、翻訳の本ですからね。もとのイタリア語が持っていたであろうニュアンスがどんなものだったかなんて、到底私なんかには分かるはずはないのですが、きっとそれを壊さずに上手に翻訳されているんだろうって思いました。だって、本当に自然に読めましたもの。
39言語に翻訳された国際的ベストセラーだそうです。

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