『齋藤孝のざっくり!万葉集』 齋藤孝
「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす」
・・・、令和ってことですね。
中村草田男さんが「降る雪や明治は遠くなりにけり」と読んだのは、元号が昭和に移り変わってのことだそうです。大正ではないんですね。元号が大正に変わって、明治に生まれ育った人たちは過去に追いやられてデモクラシーを論じる時代になります。それでも世の中を動かしている人たちは明治の人たちで、懐かしむのは明治だったわけです。
それが昭和になる頃、明治の人たちはそろそろ第一線から引き、後進に道を譲ります。 彼らが明治を懐かしむのは同じでも、それは大正を懐かしむ影に隠れてのことになってしまいます。
昭和35年生まれの私も、今年の3月いっぱいで第一線を引き揚げました。4月で平成が終わって、5月からは令和になりました。しばらくすれば、平成が懐かしく思い起こされるようになるでしょう。そうなれば、私たちは昭和が遠のいたことを、強く意識することになるでしょう。
“中国”ではなく、日本の古典に元号の典拠が求められるっていうのは、とてもいいですね。なかでも、万葉集っていうのがいいとおもいます。
日本っていう国は、世界に稀な国。なにしろ古代と現代が、途切れずにつながっているって言われます。民族も、文化も、言語も、・・・。それこそ神話から現代までがつながっていると。
だけど、それにしては、神話の世界というのが曖昧模糊としすぎています。それに歴史がつながっているとはいいながら、日本の原型である大和朝廷っていうのがどのようにして成立したのかが分かっていません。正史としての『日本書紀』があるにも関わらず、ヤマト朝廷がこの国を支配する正当性を、そんないちばん大事なことを語っていない。
本当におかしなことです。・・・わけがあるに違いありません。


これは建国に問題があるのではなく、『日本書紀』が書かれた時代に問題があるということになります。その、『日本書紀』の成立に大きく関わるころ、大和朝廷ではとんでもない事態が起こっていました。それがちょうど、《第3章 古代の歴史が透けて見えるー後継者をめぐる血なまぐさい事件がてんこ盛り》の時代に該当します。
聖徳太子という人物には実在感が乏しく感じます。さらに、その子とされる山背大兄王に関しては、さらに実在感が乏しいように思います。何しろ跡形もなく消えてしまうんですから。
大和には 群山あれど とりよろう 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は
舒明天皇の国見の歌です。明るくて伸びやかですね。著者の齋藤孝さんは蘇我蝦夷が山背大兄王を支持する境部摩理勢を殺したことで、田村皇子が舒明天皇になれたことを取り上げています。蝦夷の専横がエスカレートしていく中で読まれた歌にしては、“音読して気持ちのいい作品”と言っています。
どうなんでしょうねぇ。おそらくこの時代の一番の焦点は、一つには律令の導入に伴う公地制への移行、もう一つが親百済外構から全方位外交への移行にあったと思うんです。蘇我政権こそ、それを進めていました。
山背大兄王は、このあと蘇我入鹿に滅ぼされたことになってます。改革への反動勢力であり、偉大な聖徳太子の子である山背大兄王を跡形もなく滅ぼした、非道な蘇我氏であるから、これを滅ぼす中大兄皇子と中臣鎌足に正義はあるというのが、正史『日本書紀』の主張です。
だとすれば、そんな状況でこんなにも明るさと躍動感に満ちた歌を読んだ舒明天皇は、どこか性格に異常なところでもあったわけでしょうか。
その天智天皇(中大兄皇子)と中臣鎌足体制を覆したのが、壬申の乱で二人の体制を継承した大友皇子をやぶった天武天皇ですね。天武によって改革は進められることになりますが、その後、天智天皇の娘の持統天皇と中臣鎌足の息子の藤原不比等が、天智・鎌足体制を継承・発展させるんですね。『日本書紀』はそのような状況で世に出ます。
本当のことを言ってるのは、『万葉集』の方でしょう。
『万葉集』には、まだまだ隠された魅力があるように思います。
・・・、令和ってことですね。
中村草田男さんが「降る雪や明治は遠くなりにけり」と読んだのは、元号が昭和に移り変わってのことだそうです。大正ではないんですね。元号が大正に変わって、明治に生まれ育った人たちは過去に追いやられてデモクラシーを論じる時代になります。それでも世の中を動かしている人たちは明治の人たちで、懐かしむのは明治だったわけです。
それが昭和になる頃、明治の人たちはそろそろ第一線から引き、後進に道を譲ります。 彼らが明治を懐かしむのは同じでも、それは大正を懐かしむ影に隠れてのことになってしまいます。
昭和35年生まれの私も、今年の3月いっぱいで第一線を引き揚げました。4月で平成が終わって、5月からは令和になりました。しばらくすれば、平成が懐かしく思い起こされるようになるでしょう。そうなれば、私たちは昭和が遠のいたことを、強く意識することになるでしょう。
“中国”ではなく、日本の古典に元号の典拠が求められるっていうのは、とてもいいですね。なかでも、万葉集っていうのがいいとおもいます。
日本っていう国は、世界に稀な国。なにしろ古代と現代が、途切れずにつながっているって言われます。民族も、文化も、言語も、・・・。それこそ神話から現代までがつながっていると。
だけど、それにしては、神話の世界というのが曖昧模糊としすぎています。それに歴史がつながっているとはいいながら、日本の原型である大和朝廷っていうのがどのようにして成立したのかが分かっていません。正史としての『日本書紀』があるにも関わらず、ヤマト朝廷がこの国を支配する正当性を、そんないちばん大事なことを語っていない。
本当におかしなことです。・・・わけがあるに違いありません。
『齋藤孝のざっくり!万葉集』 齋藤孝 祥伝社 ¥ 1,650 令和の時代だから知っておきたい教養。古代の歴史・万葉仮名・鑑賞ポイント・万葉人の暮らし…。 |
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これは建国に問題があるのではなく、『日本書紀』が書かれた時代に問題があるということになります。その、『日本書紀』の成立に大きく関わるころ、大和朝廷ではとんでもない事態が起こっていました。それがちょうど、《第3章 古代の歴史が透けて見えるー後継者をめぐる血なまぐさい事件がてんこ盛り》の時代に該当します。
聖徳太子という人物には実在感が乏しく感じます。さらに、その子とされる山背大兄王に関しては、さらに実在感が乏しいように思います。何しろ跡形もなく消えてしまうんですから。
大和には 群山あれど とりよろう 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立つ立つ 海原は 鷗立つ立つ うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は
舒明天皇の国見の歌です。明るくて伸びやかですね。著者の齋藤孝さんは蘇我蝦夷が山背大兄王を支持する境部摩理勢を殺したことで、田村皇子が舒明天皇になれたことを取り上げています。蝦夷の専横がエスカレートしていく中で読まれた歌にしては、“音読して気持ちのいい作品”と言っています。
どうなんでしょうねぇ。おそらくこの時代の一番の焦点は、一つには律令の導入に伴う公地制への移行、もう一つが親百済外構から全方位外交への移行にあったと思うんです。蘇我政権こそ、それを進めていました。
山背大兄王は、このあと蘇我入鹿に滅ぼされたことになってます。改革への反動勢力であり、偉大な聖徳太子の子である山背大兄王を跡形もなく滅ぼした、非道な蘇我氏であるから、これを滅ぼす中大兄皇子と中臣鎌足に正義はあるというのが、正史『日本書紀』の主張です。
だとすれば、そんな状況でこんなにも明るさと躍動感に満ちた歌を読んだ舒明天皇は、どこか性格に異常なところでもあったわけでしょうか。
その天智天皇(中大兄皇子)と中臣鎌足体制を覆したのが、壬申の乱で二人の体制を継承した大友皇子をやぶった天武天皇ですね。天武によって改革は進められることになりますが、その後、天智天皇の娘の持統天皇と中臣鎌足の息子の藤原不比等が、天智・鎌足体制を継承・発展させるんですね。『日本書紀』はそのような状況で世に出ます。
本当のことを言ってるのは、『万葉集』の方でしょう。
『万葉集』には、まだまだ隠された魅力があるように思います。

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